メモ

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ソナタを作ったり再生したりするのは、もはや演奏者ではない。彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌い、あるいは演奏家がそれについていくために「急いで弓を握りしめ」なければならぬほど突然ソナタが叫び声をあげるのだ。
(『見えるものと見えないもの』「絡み合い-交叉配列」 メルロ=ポンティ 滝浦静雄・木田元訳)
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昔、写真をよく撮っていた頃があって、といっても10年ぐらいずっと撮っていたのだけど、写真に関わる人ならたぶん上に挙げた言葉は日常的な感覚として感じていることだと思う。

たとえ自分が決めた構図でタイミングでシャッターを切ったとしても、撮れた写真は自己表現ではない。自己表現なんてほんとうにちっぽけなもの。写真にはいつも知らないものへと開かれる可能性がある。それを頼りに次のシャッターを切っていく。急いで弓を握りしめる。

知らないものへ開かれていくこと。意図せず開かれたものへ意志すること。音楽でも写真でも映画でも演劇でもなんでも、ぼくはそういうものに出会ったとき、面白いって感じます。
このあいだサイクリングに出かけた。
向かい風が強かったのでららぽーと船橋のスタバで休憩することにしたら、もう動く気がなくなって、重い雲が低いところを1日中ゆっくり流れていく様子をその日みた色んな雲の流れと重ね合わせながらぼんやり過ごす。

3年も前に買ってまだ読み通せてない本を少しずつゆっくり読んだ。

そのなかで引用されている言葉が面白かった。


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身体とは偶然の所産である。それは諸衝動の全体の出会いの場所にほかならず、それらの衝動は一人の人間の生の期間は個人化されているとはいうものの、ひたすらに非個人化されることを渇望しているのである。(『ニーチェと悪循環』「欲動の記号論の起源としての病的諸状態」)

こうした観点からニーチェは情動(アフェクト)という用語を取りあげる――それは、基体の欺瞞的な「同一性」に従属させられながらも、その同一性を変化させ、不安定でこわれやすいものにする諸力に、その自律性をかえすためである。(同)
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情動が非個人化を促していくこと。そこには自律性があること。

たとえば音楽を聴きながら、そんなふうに身を任すことができたら気持ちイイだろうなぁ。

繰り返し繰り返し生きていくこと。それを感じること。

前世とかそういうことじゃなくて、それはイメージでしかないのかな?
ここに記事書いたのは5ヵ月も前なのか。

最近あったちょっとした出来事…なんだったんだろ。忘れた。

最近、河瀬直美の『殯の森』という映画を途中まで見て、結局途中で見るのをやめてしまったのだけれど、その中で聞いた言葉が印象的だった。

「こうせなアカンっていうことはないんやからな」

どんなふうにしていってもよい。この言葉は、大人だからこそもてる自由さへと向けられているのだろう。

でもそういうことが書きたかったんじゃないんだよな。

生まれては死んでって繰り返されている営みのなかで肯定されているという感覚。

この映画のなかで聞いたこの言葉から思い浮かべたのは、そういうことだった。

なんだか楽になったことは変わりない。