『河岸忘日抄』/堀江敏幸 p.84


軋轢を避け、衝突を回避し、つまりは他者との深いまじわりを遠ざけているようにみえても、彼はたくさんの自由のなかから、自身の居場所を、他人が想像しているよりはるかに暴力的なしかたで選択してきた。趣味に合う合わないを口にするのは、あまりにやさしい。好き嫌いでものごとを判断するのは、あまりにたやすい。そんなに単純な二分法で世界を割り切ることができたら、生はどれほど安楽だろう。趣味に合わないと断じるとき、なぜ趣味に合わないかを説明するのは容易ではないけれど、むずかしいことでもない。こいつはだめだとあきらめようとする内側の声を消して均衡をとりながら、その均衡が紋切り型に陥らず、自分ひとりに可能な心の溝を確実にトレースするレコード針の針圧は、千人いれば千通りある。公約数を求めるのではなく、もう約分できなくなったその最小値がすなわち個になる方向でひとに接することこそが、きびしい試練なのだ。


(中略)たとえば大家が好む阿呆という言葉は、彼の語彙のなかでもかつては頻繁に用いられてきたもののひとつであり、だからこそ彼はここ数年それを口にするのを極力抑えてきた。ながい時間をかけて、一種の内爆に近い処理方法を磨いてきたのである。ビル解体に用いるほどの規模ではなく、不具合の起きた真空管がまとめて破裂する程度のものではあれ、怒りの芽は、いったん散り散りの灰となって胸のうちに音もなく降り積もり、やがて体内に溶け込んでいく。いつかはなんらかの方法で排出されるのだろうが、この内爆の瞬間さえ把握できれば、本格的な爆発、暴走を防ぎうるはずだとの確信が彼にはあった。他のどんな事柄にたいしても、およそ確信なんぞという感情とは無縁で生きてきた彼が、たったひとつ、誰のまえに出てもおそらく胸を張ってこれならできると言えるのが、この怒りの早期処理法だったのである。


結局、なりゆきまかせのこの船での暮らしは、自暴自棄のあらわれではなく、どこかで意識的に内爆を誘発し、それを慎重にしずめるためのものではないかとさえ彼は思うことがある。
(中略)そんな内側の動きを統御していくために不可欠な「きびしいおだやかさ」があってもいいはずだし、またそうした特別なきびしさにたいする世の理解がもっと得られてもいいのではないか。それ以上約分できなくなった怒りの断片を保持することこそが「あたりまえの感覚」であり、括弧のいらない個性を支えているのだ。


(中略)謎なんですよ、平々凡々たる細部がひとりの人間の身体に収まっていったとき、やっぱりおなじにならない。くだらない行為にすら微妙な色のちがいがでる。どこがどう組み合わさって、どんな力が働いたらそうなるのか、ずらりとならんだ無味乾燥な観察記録がちゃんとそのひとだけの容貌になる。もしそれを個性と呼ぶとしたら、いや、ぼくにはそう呼ぶしかないから個性と言っておきましょう、話が面白いとか、気が利くとか、そういう見やすい部分とはべつの、身体ぜんたいにまとわりついてる空気みたいなものなんですね。だから、きみには個性がない、自分らしさがないなんて、上からものをいうような連中はどうも信用できない。個性は、他者の似て非なる個性と、静かに反応するんです。そうでなければ、人と人とのつきあいがこんなにも面倒くさくて、こんなにもありがたいはずがない。ほら、おまえは自分の言葉を使っていない、個性がないって、よくそういうことを口にするやつがいるでしょう、(中略)言葉は、誰だって出来合いのものを学ぶんですよ、それこそ小学校の教科書に載っているようなものをね。辞書を引けば、意味が載ってる。でも、その出来合いの言葉を、どんな状況でどんなふうに用いるかによって、無限の個性が生まれるんです。ただし、組み合わせた結果がどんなに面白くても、なぜそうなったかについては説明がつかないんですよ。
『河岸忘日抄』/堀江敏幸 p.72


並列でよいと得心するためには、光量が変わらないという真実を肝に銘じておく必要がある。現状維持の怖さは、その真実をまがいものの真実と取りちがえて、いっさいを台なしにしかねない点だ。ほんとうのことを見切る力がなければ、結果的に直列とおなじ愚を犯すことになる。(中略)

いまの世の流れは、つねに直列である。むかしは知らず、彼が物心ついてこのかた、世の中はずっと直列を支持する者たちの集まりだったとさえ思う。世間は並列の夢を許さない。足したつもりなのに、じつは横並びになっただけで力は変わらず温存される前向きの弥縫策を認めようとしない。流れに抗するには、一と一の和が一になる領域でじっとしているほかないのだ。彼はその可能性を探るためだけに慣れ親しんだ土地を離れて、不動のまま、並列のままなおかつ移動しさまよい歩く矛盾を実践しようとしたのではないか。

だが、どうやって? その具体的な方法が、まだ彼には見つからない。



書き忘れてたけど、前回の引用文中にある映画は、タルコフスキーの『サクリファイス』。
『河岸忘日抄』/堀江敏幸 p.20


現実に向き合い、ときにはそこに加担し、ときにはそこから退く技を、ひとはしばしば処世術と呼ぶ。他者にたいする善意の目配せをつねに目配せだけに終わらせ、自分を追いつめないこと。そういう身のかわし方がこの流派の最良のかたちだとするなら、彼はそこからもっとも遠いところに立っていた。弱さとは、映画の末尾近くで演説しながらおのれの身体に火を放ったあの男のように、おそらく他者への思いやりが自分をほんの少し自分でない方向へずらし、どこかべつのところへ追いやっていくような足場の組み方しかできないことではないだろうか。しかもそのずれは、ほとんど修復不可能である。弱さを引き受けた者は、たえず増幅するそのずれを取り込んで、なけなしの自分を支えていかなければならない。

裏と表の使い分けをどうしても体得できなかったせいだろうか、灯油をかぶって火に包まれるほど「他者にたいする責任」を引き受けるのも行き過ぎだとするのが彼の立場だった。なぜその中間に立つことができないのか。あいだに身を置くのは責任の回避では断じてなく、誰にもそうとはわからない微妙なしかたで責任を取ることなのだ。ブッツァーティの主人公が滅びの道を歩まずにすむためには、そんなふうにとても「強い弱さ」を育てていくしかなかっただろうと彼は思う。



3,4年前にも、同じ箇所を書き写した。

河岸で鳴り響くジャンベの音につられて出かけた。そして河岸に立って、河に繋留された船を見てみたのかもしれないと思う。「なにかがはじまるわけでも、終わるわけでもない。」「すべてはこれまでとおなじ顔をして彼のわきを通りすぎていくだろう。」

「強い弱さ」を育てることができたのだろうか。それはわからない。
でも少なくとも、それが僕にとって、どうしようもなく逃れられないものであり、僕を捉えつづけるものであることは、わかった気がする。