夫が帰った。


この5日間、夫のためによく動いた。

家政婦廃業宣言は何だったのか、というくらいに…


娘夫婦や孫たちとも楽しく過ごした。


そして夫は「じゃ」と言ってあっさり帰り、すっかり片付き綺麗になった家で私はなぜか涙した。


「寂しいよ」

「寂しいね」


自分に言った。



寂しさは今に始まったことじゃない。

夫との四十年間、私はずっと寂しかった。

一緒に暮らしていたにも関わらず。


夫の中に心を感じないからこんなに寂しいのかもなぁ。

まともな心があればこんなことにはなっていないか。



最新のルンバとブラーバを買ってくれて、

「これで少しは楽になるだろ」と。


ありがたいね。

ありがたいよ。

とってもありがたい。

感謝しています。


でも、お金をかけてくれるだけでは心は満たされないね。


ずっとそうだった。


どんなに高い物を買ってもらっても、嬉しいのはその一瞬だけ。


贅沢言ってるねー


でもね、お金で心は満たせないんだよ。


心がわからないモラハラさんにそれを望んだところで無駄だと思うから、だからこんなに寂しいんだね。



そしてそれでも、喜ぶ顔を見たくて一生懸命してしまう自分に問うてしまう。


「一体私はどうしたいの?

四十年も夫婦でいたのにまともに愛を育めなかったことを自分の責任だとでも思っているの?別居したことを後悔しているの?」


さんざん問うても答えは出ない。


ただ虚しさだけが残った。



そして自分の思考を観察してギョッとした。


四十年以上夫は数々の女と大いに遊び、趣味を楽しみ、家に帰れば私たちに怒鳴り散らし、飯、風呂、寝る、とまあ昭和初期かと言うくらいの俺様亭主だった。


私はというと、仕事に出ることも許されず、家のこと、舅の下の世話までし、姑からはさんざんなモラハラを受けながらお世話をしてこの四十年生きてきた。

遊ぶことも楽しむことも制限され、毎日鬱々と生きてきた。


それなのに尚、気づくと戻ろうとする思考が働く。


本当に人間というのは大きく変わることが難しいもんだ。


小さなことを積み重ねてミルフィーユのように少しづつ積んでいくしかないんだな。



この自分のクソがつくほどの真面目さが恨めしい。

こんなに私がクソ真面目で繊細であることを四十年も連れ添った夫は知らない。

私がこんなに葛藤していることなど知る由もない。


決して幸せだったとは言えないのに、長年慣れ親しんだ環境に引き戻されそうになるんだなー


戻ったところでまた同じことの繰り返しであることは明白なのに、つい戻ろうとする人間のこの哀しい性。


夫と数日一緒にいると出てくるホメオスタシス。


私とホメオスタシスとの戦いはいつまで続くのか…

忘れるな、私。

どんなに傷つけられてきたのかを。

負けそうな時は思い出せ。


絶対に私は負けない!