こんにちは、福岡県行橋市で

ベビーマッサージ講師

をしていますふじたみわデス。

 

現在はベビーマッサージの先生として、毎月たくさんの親子様と出会うお仕事をさせていただいています。

「赤ちゃんとっても好きなんですね」と言われますが、実は。

ママになる前は子供がとても苦手でした。

 

 

  安定な収入を求めて看護師の道へ

私の母はシングルマザー、看護師として働きながら私を育ててくれました。

 

祖父母と4人暮らしだった子供時代。

母は夜勤もしていたので祖父母やいとこ家族との思い出が多く、正直母と遠出した思い出はほとんどありません。

子供ながらに仕事の大変さを肌で感じていました。

そんな私も看護師の道へ進みます。

 

きっかけはある日の会話。

私「ねえ、お母さん。看護師以外のお仕事したいと思ったことがないの?」

母「そうねえ。他のお仕事がしたいと思ったことはあるけど、看護師は人よりもお金もらえるから。お仕事もなくならないしね。」

‥そう。私が看護師になったのは収入のためでした。

順風満帆に進んでいき、20歳で看護師になりました。

 

それからは、いくつかの病院を周り、最終的に行橋市の病院に就職。

おじいちゃんおばあちゃんがほとんどの病院でした。

仕事は結構ハード。でも地域では大きめの病院で給料も地域の中ではいい方。

「収入は仕事の対価」

そう思っていた私は、仕事はハードだけど「安定の収入」をもらえる現状を維持するために

必死に働きました。

 

 

  実は子無しの予定でした

私たち夫婦は車が大好きで3台所有していることもありました。

広い駐車場が欲しくて結婚してすぐに家を建てました。

結婚当初は子供の話も出ましたが、私は自分の時間がなくなるのが嫌で「子供はいらない」と子無し宣言をしていました

私たちが家を建てた場所は、旦那さんの友人も時を同じくして家を建て仲良くなりました。

友人夫婦には当時4歳と2歳のお子さんがいて、家族ぐるみで仲良くしていました。

子供が苦手だった私ですが、遊びに行くといつも慕ってくれて、あどけない笑顔で迎えてくれる子供達を見て、子供を望むようになります。

 

 

 

  子育てと仕事の両立の大変さに直面

結婚して4年目。32歳で第1子となる長女を出産。

初めての子育てで毎日大変でしたが、お隣家族や友人に助けてもらいながら子育て。

そして1歳になると同時に職場復帰しました。

当時、世の中育休延長できることも時短という働き方があるということも知らず、保育園に落ちたけど病院の託児所があったので託児所に預け、フルタイムで職場復帰しました。

当初、夜勤は半年くらいになってから少しずつという口約束でしたが、人手のなさから、復帰して2ヶ月後には夜勤も復活、正真正銘のフルタイムになりました。

 

病院付きの託児所は、とても過酷でした。

預けられるのは「自分の勤務時間の間」のみ。

 

周りの人には「託児所があっていいね」と言われていましたが、

実際は過酷な「地獄の託児所」でした。

私が早出でも遅出でも日勤でも見てくれるので制限なしで働くことができます。

問題は夜勤。夜勤の前後や休みの日は預けられないんです。

夜勤の日は出勤前までは子供の世話でほとんど寝られず、子供を預けて夜勤に行く。

仮眠が1時間未満の過酷な夜勤が終わったら子供を迎えにいき子供と帰宅し、もちろん寝れず。

48時間のうち計4〜5時間くらいの仮眠しか取れないこともしばしば。

次の日は大抵お休みでしたが、子供は一緒にお休み。

近くに親などもいなかった私は美容院にも行けず。

でも、知り合いが病院内しかいなかった私はそれが当たり前だと思っていましたが、

体が限界を感じていました。

それでも「安定の収入」をもらうためにはここで働くしかないと思っていた私は

「やめる」という選択肢はありませんでした。

 

そして2人目の妊娠を望みました。

一番の理由は「育休取得」をして家族でたくさんお出かけがしたい、

1年間でたくさん思い出作ってまた仕事を頑張る。

 

そして、36歳で待望の2人目を出産、育休の2回目を取得

その時は、「育休復帰したくないなあ」と思うことはありましたが、

看護師をやめる選択肢は1㍉もありませんでした。

 

 

  一回目のターニングポイント。         長女とは全く違った次女の育休

2人目育児は想像を絶する大変さでした。

もうどうやって過ごしていたのか産後3ヶ月ほどの記憶はありません。

そんなこんなで次女が4ヶ月に入る頃、出かける予定を立て始めたまさにその頃。

少しづつ私のターニングポイントのきっかけとなるものが忍び寄ってきます。

 

2020年1月、次女4ヶ月、とうとう日本に新型コロナウイルスが上陸。

 

コロナウイルスの上陸は、私たちの生活を一変させました。

 

1年かけていくはずだった全ての旅行計画がすべて白紙に。

次女と2人の時間を楽しむどころかまさかの登園自粛

約3ヶ月間、家での缶詰生活を余儀なくされました。

 

公園の遊具にはkeep outのテープが貼られ、公園にすら連れて行けず。

県外ナンバーの車が嫌がらせを受けるニュースが毎日のように報道され、

ドライブすらいけなかった。

買い物も子供を連れて行かないようにするため旦那が家にいる夜にのみ

子供が寝てから20分ほどの短時間で過ごす。

本当にストレスだらけの毎日でした。

 

そんな日々が続き、緊急事態宣言が明けた頃、わたしに1通のメッセージが届きます。

のちにこのメッセージが私の人生を大きく変えることになるなんて

この時は想像もしませんでした。

 

「今度、こっち(県外の地元)で赤ちゃんの撮影会があるんだけど来ない?」

25年ぶりにSNSで再開した小学校の友人からでした。

 

気持ちとしては、友人に会いたいし、撮影会も行きたい、、。だけど場所は県外。

県外ナンバーで子供を連れて行ってもし何かあったら?、、そう思うと即答できず。

開催日時のギリギリまで悩みました。

コロナに感染する怖さよりどの恐怖の方が大きかったのを今でも覚えています。

 

でも、姉妹フォト撮りたかったし、このままただ時が過ぎて何も残らないのはいやだ。

そう決心し、撮影会に足を運びました。この撮影会で担当講師に出会います。

 

もし、この時撮影会に参加しなかったら、きっとこの出会いはありませんでした。

このたった一回の選択が、私の人生を変える

大きな出会いの場となりました。

 

  魅了された撮影会。知らなかった世界を知った日

いろんな思いと不安を抱えながら参加した撮影会。

撮影時間は30分ほど。

スタジオ撮影の時間より少ない時間だったけど、そこには楽しいが詰まっていました。

 

実はこのとき次女は最初から最後まで泣きどうしでした。

でもときには写真を一緒に見ながら「かわいいね」と笑い合いながら、一緒に楽しみながら撮影する、今まで味わったことのない空間。

それだけで私の心は満たされました。

そして出来上がった写真見てびっくり。あんなに泣いてばかりで泣き顔しかなかったのに

笑っているような写真が何枚も。すごい。楽しい。次も行きたい。

一瞬で虜になった私は先生の撮影会や誕生日などの撮影に足を運びます。

その中で、元看護師さんだったこと、ベビーマッサージの先生であることを知ります。

 

お教室に行ってみたくてパパにお願いしてみたけど、コロナに罹患したら、、という話になり、

結局はいかなかった。

今でもこのときにレッスンに参加できなかったことを後悔

しています。

 

そしてベビーマッサージの資格が取れることを知り少しづつ興味を持ち始めます。

 

ある日先生に「看護師に戻りたいと思いますか?」と聞くと「思わない」と即答。

「看護師としてよりも働きたいお仕事」に興味を持ち、その先生のSNSをチェックし始めます。

そこには、ベビーマッサージの講師としてのお仕事で輝いている先生の姿が。

お仕事も全力で楽しみ、お子様との時間を満喫され、自分のことも大切にする。

そこには私の諦めていたことを叶えている理想の人生

がありました。

看護師としてではない働き方で、

子供の時間も家族の時間も収入も自分の時間も手にできる働き方ができたとしたら、、。

でも、まだその時は自分がその働き方になることすら想像できていませんでした。

 

 

 

  2年の葛藤の末に

2人目の育休が終わり復帰しました。

前と同じ職場。産休前と変わらない仕事内容。

だけど次女は長女と違い、人見知り、場所見知りが激しく、園に行く時も帰る時も泣いてばかり。

家に帰ってからは園生活を頑張っているからか、24時間あるべったりでトイレも抱っこしながら、

家事もおんぶしながら。

夜は絶対ママじゃないと寝ないって言われる始末。

私自身も心身ともに疲れ果てていました。

夜勤のある生活を送る自分を想像するとゾッとしました。

 

でも転職したいなあって思っているだけで、2年もの間私は行動に移しませんでした。

理由は「私はここで働くことしかできない」と思っていたから。

 

10年以上いる職場だったから仕事も慣れてた。人間関係にも特に悩まず

だからこそ、もし転職しても仕事を覚えられるのか、人間関係に悩まないか

まだ起きていない未来を想像するたびに「無理だ」「きっとできない」って

決めつけてた

 

ある日上司に言われたんです。

「子供さんも小さいし日曜日の出勤や夜勤は相談してくれたらどうにかなると思うよ」

とてもありがたかったけど、この言葉も転職を決めたきっかけの一つ。

子供の小さい時だけ」この一言が私の背中を少しおしたんです。

だって子供が大きくなったらまた夜勤や日曜出勤は免れないとこの一言で悟ったから。

 

 

  ついに転職を決意!きっかけは〇〇でした

 

なかなか転職への一歩が出なかった私を動かしたのは、長女が小学校に上がったことでした。

そう、小一の壁。

世間では有名な壁ですが、この壁の出現が私の心を大きく動かしました。

 

この時は次女が3歳になる前だったので時短勤務を選択していました。

だから、勤務時間が短く夜勤が免除になっていたので乗り越えられました。

と同時に不安が一気に押し寄せてきました。

もしこれがフルタイムだったら

夜勤もしていたら、果たして乗り越えられたのだろうか。

もし数年後次女が小学生になった時、この壁を乗り越えられるんだろうか

そう考えたら不安でたまらなくて、「転職」という言葉が私の中で大きくなりました。

 

我が家の長女はもうすぐ小学三年生。次女ももうすぐ5歳。

世間での「小さな子供」ではなくなりつつある。

 

もし退職していなかったら

夜勤もするフルタイムの看護師として働いてた。

泣いてる子供達にも「お金のため」って言って我慢させて、

日曜はママが不在で、家族一緒で一日過ごせるのも月一くらいで。

心身ともに疲弊して、いっつもイライラしてる毎日だった。

 

働き方を変え、ベビーマッサージ講師になって私の想いも生活も一変しました。

 

自分の好きなようにシフトが組めるから、他の人に気を使ったり無理やり夜勤明けとかにしなくてもゆっくり行事に参加してあげられる。

習い事も送迎ができないから無理だったけど、今は好きな習い事をさせてあげられる

朝の登園も一番じゃなくなったし、暗くなる前にお迎えに行けるし

夜勤もないから毎日一緒に寝てあげられるあげられる。

自分の好きなようにシフトが組めるから、他の人に気を使ったり無理やり夜勤明けとかにしなくてもゆっくり行事に参加してあげられる。

習い事も送迎ができないから無理だったけど、今は好きな習い事をさせてあげられる

朝の登園も一番じゃなくなったし、暗くなる前にお迎えに行けるし

夜勤もないから毎日一緒に寝てあげられる

 

今まで不安に思っていたこと、無理だと思っていたことができるようになった。

 

 

  「勇気の一歩」を踏み出せたから、今がある

もしコロナ禍になってなかったらもしかしたら撮影会には行ってないかも

もし撮影会に行ってなかったらきっと先生に出会ってないし、この働き方にも出会わなかった。

たった一個の勇気を出した行動が、私の人生そのものを変えました。

こうなりたいな‥って思っている間は何も変わらなかった

 

でも手に入れたい人生が明確になったから、勇気の一歩が出せたからこそ

「ママ」といても「わたし」としても、どちらの自分も大切にする生き方ができています

 

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

私の思いや経験が少しでもママたちのお役に立てますように。

 

 

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