こんにちは!

《自分を育てるお稽古》かなえです。



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今日は、7年前のノートを見返していて気付いたことを書いてみますね。




当時はノート術とか自己対話とかは知らずに、自分の中に収まりきらなくてもて余した感情をただただノートに吐き出していました。


ノートを見ると、
延々と自分以外の人のことが
書いてありました。

ほぼ主人や母のことです。


私は、ずーっとずーっと主人や母や他の人のことを考えているんですね。


主人が~~
母が~~


私に見えているのは、主人や母や他の人。


自分のことはあまり見えていない。





これでふと思ったことがあります。



私たちには、外敵から生き残る術としても使われる、外の世界を感じるための感覚がある。

目、耳、鼻、舌、肌、等々 ...

危険や異常を感知して、
自分の身を守るために
それ以上深手を負わないように
神経を研ぎ澄まして外の世界を感じる。




私は自分のこの感覚を、外の世界から自分を守る防御に使っていたのだな。


一生懸命に外の世界を見て、危険だ、異常事態だ、と見張っている感じでした。





感覚器官の使い方として、間違ってはいない。


だけれど、外側だけとコンタクトをし続けると疲弊します。ずーっと緊張感を維持することは無理がある。


7年前は、私はずいぶん緊張状態にあったんだなあ、がんばってたね、ご苦労様と労ってあげたいです。





私たちは、感覚器官を使って自分とも繋がれます。


目で見たものに、「何を感じる?」
耳で聞き取ったものに、「何を感じる?」

鼻、舌、肌、その他の感覚も同じ。


こうやって内側に意識を向けると、とても安心を感じます。


自分とコンタクトを取れている、自分と繋がっている安心感です。





ここで質問ですにっこり



「外側とコンタクトを取っている?」
「内側とコンタクトを取っている?」


普段、ご自分はどちらの状態でいるでしょうか?


外側?
内側?
時と場合による?



ちょっと客観的な視点で自分を見てみてくださいね。



自分がどの状態でいるのかを自覚出来ると、
ノートを書いたり、自己対話する時に、

「自己対話」しているのか
「他己対話」なのか (←こんな言葉ないかも)

区別がつきます。




「他己対話」をしていると、延々と外側の誰かを見ていて、肝心の自分のことが見えてこないし、疲弊する。


「自己対話」にすることが大事だなあと思います。



自分に矢印を向けて、自分の身体の五感やその他の感覚を感じると自分と繋がり、自分のことが見えてきます。