原文

――「安全だ」と言う専門家は、「放射線を浴びて病気になった人もいるし、なっていない人もいる。だからすべて危ないとはいえない」という論理ではないでしょうか。


 まさに、それが問題なのだ。なぜチェルノブイリの子どもにがんが異常に増えてしまったのかという観点が抜けている。論理のすり替えだ。

  確かにチェルノブイリでも、がんになった子どももいれば、そうならなかった子どももいる。世界でも有数の穀倉地帯で、彼らはそこで取れた野菜や果物などを 口にするから、全員、甲状腺がんになってもよいはず。しかし、実際は違った。だからと言って「内部被曝=がんなど病気の発生」の可能性を否定することはで きない。

 また、がんは自然発生的で普段の習慣から来るものもあるから、放射線だけが原因ではないという見方もある。確かにそうだ。

 でも、チェルノブイリでは事実、がんになった子どもが異常に増加した。そういった子どもたちを、私は現地で治療してきた。日本でもそうなる可能性があるのだ。

 もし自分の子どもががんになれば、その母親は一生悔いるだろう。なぜあの時水を飲ませたのか、あの野菜を食べさせたのかと自分を責め、一生苦しむはずだ。子どもだって切ない。そんな悲しい現実を、ベラルーシでたくさん見てきた。
原文

http://www.fsc.go.jp/sonota/emerg/emerg_torimatome_point_20110329.pdf


最下部今後の課題で

発がん性の検討、胎児への影響などについて詳細な検討が本来必要
今回の検討では発がん性のリスクについての詳細な検討は行えていない
様々な検討課題が残る

ウラン、プルトニウム、ウラン元素アルファ核種
放射性ヨウ素、セシウムの遺伝毒性発癌物質としての詳細な評価

核種の体内動態などに関する検討必要


食品安全委員会は今の基準値は
あまりあてにならんと明言している。
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/1115


悪い奴らは来なかった

病棟で3年過ごした昔、上司の書いた処方箋を見て、「こうすればもっといいのに」なんて批評家気取りができるようになった 頃、島に飛ばされた。邪魔な上司の指示が入らない、「こうすれば」を自分の責任で行える機会がいよいよ巡ってきて、それをやろうとして、手が動かなかっ た。

決断のお話。

実戦は怖い

島への派遣が決まったとき、粋がって英語の本ばかり持ち込んだ。世界的に権威のある教科書だから、信頼性なら完璧なのに、いざそれを使おうとして、 それを翻訳するのが自分であることに思い至って、その本がいきなり信用できないものに変わった。普段は馬鹿にして、ろくに読みもしなかった日本語の「今日 の治療指針」がありがたくて、それに頼ってようやく病棟を回すことができた。

畳の「へり」なら転ばず歩けるのに、それが地上10m の高さに置かれたそのとたん、足がすくんで動けなくなる。模範解答を知っていることと、実際に決断ができることとは全くと言っていいほど異なって、いざ自分がその状況に置かれてみないと、その違いには気がつけない。

叩くのは気分がいいし、叩く人はしばしば賢しげに見えたりもする。叩いて叩いて、現場を回してきた人たちが退場して、叩いてきた人たちが勇躍リーダーになると、現場は固まる。固まって、再び動き出すまで、恐らくは何年もかかる。

「部長の処方は今ひとつ」なんてえらそうに批判できた研修医の頃から、その「今ひとつ」をようやく再現できるまで、結局10年近くかかった。

アソビは大切

「無駄の多い」上司の処方箋というものは、一種の保険でもあった。四方に保険を掛けるような、スマートでないやりかたというものは、重圧のかかる環 境にあっても自身を自由にするために、どうしても必要な「アソビ」であったのだけれど、当時の自分には、それが「無駄」に見えた。削ってはいけないアソビ は、素人には真っ先に削るべきものに見えて、そこを削ると、戻すのにとんでもない時間がかかる。

AK-47 には部品のアソビが多い。知らない人があれを見ると、もしかしたら「これだからロシア製は」なんてつぶやきながら、精度を上げて、部品同士の隙間が全くないライフルへと「改良」してしまう。

アソビをなくしたライフルを実戦に持ち込むと、埃一つで動かなくなって、死ぬ思いをすることになる。運良く生き残れれば、その場所のアソビを増やす ような「改良」が施されることになるけれど、ライフル一つ取ったところで、必要なアソビは何カ所もあるから、全ての意味に気がつくためには、何回も失敗を 繰り返さないといけない。運良く破綻を回避して、それを無数に繰り返した結果として、手元には「アソビ」だらけの、改良する余地がそこいら中にあるように 見えた、元のAKが再生される。

悪い奴らは来なかった

無駄を叩くのは気分がいい。必要な無駄に気がつくのには経験がいる。無駄を叩く側からすると、必要な無駄をかばう人は「悪者」に見える。

批判や提案、あるいは前提の変化を受けて、「じゃあこうしましょう」とか、「いやそれだとこういう問題が」とか、かみ合った議論が続けられる人と、 自分の論理がいかにすばらしいものであるのか、正当性を大声で繰り返す人とがいる。声の大きな人と話すのは大変なのだけれど、彼らの論理は、その論理の中 では整合がとれていて、けっこう人気が出たりする。

論理はよくできていて、それ想定している範囲内であれば、突っ込む場所もないのだけれど、彼らが前提としている「絶対」が、しばしば絶対でなかったりする。

前提がひっくり返ると、状況は悪化する。彼らの叩く「悪い奴ら」は、変化した状況に合わせて見解を変えるから、問題は解決して、きれいな論理は「悪い奴ら」のおかげで、その威力を発揮できなかったことになる。

「悪と叩く何かが、問題を常にちゃんと解決してくれていること」が、悪を叩ける前提になっていることがある。世の中は「本当はこうあるべき」なのだ けれど、「悪い奴ら」が外面だけ取り繕っているから、今の世の中がこれだけ腐っているにもかかわらず、一見するとそれなりに回って見える。「悪い奴らの醜 い論理に比べて、俺たちの論理は美しい。だから俺たちのほうが正しい」と、論理は続く。

「悪い奴ら」が退場した昨今、旗を振っている人たちは、犯人捜しに忙しい。彼らが探しているのは責任者ではなく「悪い奴ら」であって、問題を解決してくれる「悪い奴ら」を探すことは、あの人たちにとっては問題解決の手段に他ならないのだろうなと思う。