小学校の時、旅好きの先生がいた。

一年に一度、自転車に跨り、先生は旅をした。

「先生は夏休み一ヶ月をかけて日本列島を縦断する!」

が夏休み前の口癖だった…気がする。

「先生は田舎の山奥の、全校生徒20名くらいの学校の先生になってみたいんだ」

これも口癖だった。

結局わたしたちが卒業して直ぐ、この願いは叶った見たいだけど

わたし達の学校も、かなり田舎の学校だったんですがね…。

でもかなり疑問でした。だって

「先生は都会に行って私立の小学校の先生になりたい」

って口で言ったらまずいだろうけど、まさか本気で山奥に行きたい先生がいようとは…




とりあえず、そんなアクティブな先生には4年生の時と6年生の時、お世話になった。



入学した時は「小学校ってこんなもんか」と思うほどのものだった。

小学校1年生と2年生の時には、格別楽しかった記憶が、ない。

でも、小学校3年生の頃からか…

セピア色の記憶が色づくようになったのは…



小学校1年生の時の担任の先生は怖い先生で

“夕読み”という宿題を忘れると、米神を引っ張る体罰教師だった。

ただそれだけの記憶しかないわけではないけれど

とりあえず友人と先生の話をするとこの話題しか出ない。


小学校2年生の時の先生は、新任の先生で

かっこよくて好きだったけど、イジメ問題が起きた時、嫌いになった。

わたしが苛める側の一人だったからしょうがなかったが…(自白)

でも、他にも何人もいたイジメっ子の中で、首謀者はわたしじゃなかったのに、わたしだけを怒ったことが腹立たしくて、その気持ちだけが残ってしまったようだ。

でもイジメって良くないよ(よく言えるな)

ちなみにわたしが捕まった原因は、イジメの手紙の書記をしていたのがわたしで、字でばれてしまったらしい…先生って凄いなと不謹慎にもちょっと感心した瞬間でもあったし、同時に“バレないようには…”といった悪知恵がついた瞬間でもあったorz


小学校3年生の時の担任の先生は、オカマっぽかった。

でも頭は薄かった…(´Д `;

大人になった今考えると、たまにというか頻繁に出るオカマ口調はキャラクターメイキング…セルフプロデュースだったのかも知れない。子供達に好かれるための演技…。

でも幼かったわたし…わたし達には、とても異質で

とても魅力的に映ったことを覚えている。

笑顔が素敵で眼鏡の奥から優しく微笑む、そんな大人の大きさを感じさせる先生だった。


小学校5年生の時の先生はただただ大きかった。

身長が大きくて、教室に入ってくる時には頭を下げなければ頭をぶつけてしまうほどだった。

ただ、あまり記憶がない…(汗)嫌いではなかったし、好きの部類だった。

けれどきっと、4・6年生のあの強烈なキャラを持つ先生に挟まれてしまったせいで印象がかすれてしまったのかも知れない…。


小学校4・6年生の先生との想い出はたくさんある。

この先生は、子供と遊ぶのが大好きなんだな、と子供でも感じれてしまうほど

『遊ぼう!』オーラが溢れていた。

子供だったわたしたちと一緒になって

馬鹿をやってくれる存在で

そんな存在である先生は

とても安心できる存在だったことを覚えている。

一番覚えているのは、6年生でのこと。クラスは2クラスしかなく、わたしは6年2組だった。


「えーと、みんなに聞きたいことがあるんですが」


6年生最初の授業。

先生がまた担任になってくれたことが嬉しくて、先生を嬉々として見上げて言葉に耳を傾けていたのを覚えている…確かわたしの席は先生の目の前、教室の中央前列だった気がする。


「一年間の予定をみんなに相談したいんですが」


次の言葉にクラス全員が頷いた…というか興奮して騒いだ。




「一年間授業を駆け足で終わらせて、一ヶ月、遊ぼうか?」




一年間の年間スケジュールを調整して、卒業までの一ヶ月間、遊び通そうというのである。

もちろん6年生、中学に上がる前の大事な1年で、授業内容は本来の予定通り、1組と同様の内容を行わねばならなかった。


みんなそんなの無理だと思っていて、そこまで期待はしていなかった。小学校生活5年の中で、まさかそんな馬鹿げたスケジュールが出来るとは思っていなかったのある。

みんな勉強にいっぱいいっぱいの子が大半で(わたしは自分で言うのもなんだが要領の良い子だったのでその心配はなかったが…)一ヶ月も空きが空くなんて、まさかの話だった。




しかし、それは実現したのである。



「授業は、これで終わりです… …よーしお前ら、遊ぶぞ――!!!」

算数の授業が終わった時だった気がする。



いい気分だった。

1組の子達が3階の教室から授業を受けつつ羨ましそうにわたし達を見ているのが広い校庭から見えた。

体育の授業で他の学年が使っている時以外、校庭も体育館も、わたし達の使いたい放題だった。

あとになって解ったことだが、校庭も体育館も使用許可が必要だったらしく、先生が一ヶ月遊びのために取ってくれたらしい…きちんと内容のある授業をすることを条件として。

1クラス40人程度のクラスだったが、野球をしたり、縄跳びをしたり、サッカーをしたり、校庭の遊具を使ったり…東北だったので3月、まだ雪は積もっている時は雪合戦をしたり…。

先生は校庭で野球をしてる最中に教頭先生の車にボールを当てて、慌てて走って(生徒を置き去りにして/笑)逃げたりもした…子供じゃあるまいし…逃げ足速かったな(汗)


ちなみに問題だった授業の内容…これは他の先生達も親達も驚いたらしい。

あれだけ飛ばして授業をしたのにも関わらず、2組の子の方が1組の子のテスト平均よりもかなり良かったらしいのだ…確かどの教科のテストも10点以上平均点が違っていた。


それが何より、誇らしかった。



先生からは今でも年賀状や暑中見舞が届く。

それは旅した先で撮った写真や、最近では結婚式の写真。どうやら独身貴族だった先生も身を固めたらしい…旅も一時休止かな、美人な奥さんと可愛い子供がいたら、ね(笑)

わたしは今20歳だから、卒業してから既に8年程経っているけれど

それでもそんな風に関係を続けていられる先生がいることをとても嬉しく思う。

素晴らしい小学校時代だったと思えるのは

本当に“終わりよければ全て良し”と言えるように、素晴らしい先生がいてくれたから。





親愛なるE.S先生、素晴らしき日々をありがとうございます。



…こんな風に語れる小学校生活で、よかった。