10/1(日)
最近は朝のストレッチなどの時間に古典名作を読もうチャレンジをしている。
そう決めてから、『ハックルベリー・フィンの冒険』『ドン・キホーテ』ときて、今は『赤と黒』を読んでいる。
ドン・キホーテは全5巻となかなか長かったが、『赤と黒』は上下巻だし、ストーリーもびっくりするくらいおもしろいので早く読み終わりそうだ。学生の頃読んだような読んでないような記憶だったので、主人公のジュリアンが今後どうなるのかが楽しみ。
朝の散歩では、お金持ちそうなマダムに「かわいいワンちゃんね」と話しかけられた。
ランボーがかわいいと言われるのには慣れているけど(飼い主ばか)、その後私を見て、「素敵なスカートね」と言われたのには驚いた。思わず私も、「私も白いワンピース素敵だなーと思って見てました」と返してしまった。
マダムの白いワンピにすれ違う前から目がいっていたのは本当だが、心理学的には、自分が褒められたとき相手を褒め返すことはお世辞感ハンパないしむしろ逆効果の場合もあるということを知っていたので、望ましい返しではないなとすぐに反省する私に、マダムは「ありがとう」と少し微笑み、「よろしくね」と言い残して悠然と去っていった。私の知り合いのお金持ちのマダムたちと、纏う空気感がとてもよく似ていた。彼女たちは驚くほど無邪気に振る舞う。太宰治の『斜陽』の冒頭シーンのお母さまを思い出す。直治じゃないけれど、「かなわねぇ」と言いたくなった。
10/2(月)
映画『すずめの戸締り』を観る。おもしろかった。
前情報なしで見たので、戸が締まった後、バーンとタイトルが出て「そういう意味か~」と唸った。
「行ってきます」と出かけて、そのまま帰らなかった愛する人たちと残された人たちを思って泣く。
「ただいま」「おかえり」と言える奇跡をもっと大切にしなくては。
10/3(火)
友人が珈琲豆専門店で買ってくれたドリップコーヒーを飲んだら、ブラックでも甘味を感じておいしかった。
いつもはドルチェグストでスターバックスのハウスブレンドを飲んでいて何も不満はないが、豆が違うと味もこんなに違うのだな、という当たり前のことを改めて感じた。毎日同じだと慣れてしまっておいしさを感じるのを忘れがちになってしまうから、たまに違うコーヒーを飲んでみるのもいいなと思った。
そういえば、那須でゲイシャコーヒーがお得に飲めるカフェがあるということをテレビで見たので、今度帰省したときには行ってみたい。
10/4(水)
大島弓子の漫画『綿の国星』を再読している。メスの子猫「チビ猫」が主人公で、チビ猫の目で見た世界が描かれる。チビ猫は擬人化されていてかわいいドレスを着ており、猫耳美少女の元祖と言われているらしい(1978年~1987年に描かれた作品)。
実家の母の本棚にあったので、子供の頃から何度も読んでいるのだけど、改めて読み返してみると見落としていたところもたくさんあって驚く。着目する点が昔と違っているからだろう。たとえばチビ猫を拾った青年時夫が、法学部を目指して必死に勉強していたのに受験日にソ連カゼ(時代を感じる!インフルエンザのこと)にかかって受験に失敗して浪人している、という設定なんて、頭に残っていなかった。
ストーリーも日常とファンタジーの融合のようでおもしろいけれど、なにより作品全体に漂うリリカルさと詩情が好きだ。
闇は
むらさき色になり
月は満月に近づき
遠くで風が
高い波長で
カモーン とよんだ
『綿の国星 第1巻 シルク・ムーン プチ・ロード』大島弓子
とか、素敵でしょう?
それから、今回Kindleで全4巻を購入したのだが、母が持っていたのは2巻までの内容だったということも初めて気づく。3.4巻は初めて読む話で嬉しい驚き。
10/5(木)
韓国ドラマ『愛の不時着』のあるシーンを探し出して見る。
12話の、北朝鮮の将校リ・ジョンヒョク(ヒョンビン)がユン・セリ(ソン・イェジン)を守るために韓国に来ているターンで、ユン・セリの誕生日を祝うシーンだ。
これから先、誕生日が来る度に今日を幸せだった日として思い出してしまいそうで怖い、と泣くユン・セリ。
まもなく北朝鮮に帰ってしまう彼とはもう二度と会えないかもしれないのだから、これから先の孤独な人生を思って怖いと泣く彼女の気持ちはよくわかる。
そんなユン・セリを後ろから優しく抱きしめて彼が言う。
「来年も再来年もその次も、幸せな誕生日になる。
僕が思ってるから。
″生まれてきてくれてありがとう。愛する人がこの世にいてくれてうれしい”と。
だからずっと幸せな誕生日になるはず」
泣ける。
絶対また会えるから泣かないで、とかじゃなく、たとえ会えないとしても、「あなたが存在してくれるだけで嬉しい」と「僕」は思い、そう思う「僕」を思うことであなたも幸福でいられるでしょう?、と言っているところがいい。
フランクルの『夜と霧』を思い出す。
ナチスの強制収容所に収監されたフランクルが、同じく収監され、離れ離れとなった生死もわからない妻のことを思う。
ものすごく感銘を受けた部分なので、少し長くなるが引用したい。
精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、 微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
(略)
愛は 生身 の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「 本質」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「 現存」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。愛する妻がまだ生きているのか、あるいはもう生きてはいないのか、まるでわからなかった。(略)だが、そんなことはこの瞬間、なぜかどうでもよかった。愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻を見つめていただろう。
『夜と霧 新版』ヴィクトール・E・フランクル (著), 池田 香代子 (翻訳)
泣ける。
たとえ会えなくても…という『愛の不時着』より一歩進んで、たとえあなたがもうこの世に存在していなくても…という境地。
「この世にもはや何も残されていなくても、愛する人の面影に思いをこらせば至福の境地になれる」人間という生き物が、ものすごく愛おしいものに思えてくる。
そんなことを考えていると、母からLINEが届いた。
開くと、『愛の不時着』の公式スタンプ(もちろん私も持っている)で、ヒョンビンが私(だけ)に言っている。
「生まれてきてくれてありがとう」
今日は私の誕生日だ。