相変わらず米津玄師のニューアルバムを繰り返し聞いている。特に1曲目の「カムパネルラ」という曲が好きだ。

 

 

 

 

そんなことを父にメールで書いたら(父とはたまにメールで文通しているのだ)、父から次のような返事がきた。

 

米津のアルバム、私も通勤の車中で聴いてます。絢と同じように私も「カムパネルラ」と「デコルテ」が好きです。特に「カムパネルラ」をはじめて聴いた時、「波打ち際にボタンが一つ」という歌詞には驚いた。これは中原中也の「月夜の浜辺」という詩の中に出てくるフレーズなので、中也なんかまで読んでるんだなあと思って感心した。

 

「月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを、捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向かつてそれは抛(ほう)れず
   波に向かつてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁(し)み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?」


中也にとってこのボタンは、精神的な支柱(それが大袈裟な物言いだとするなら……とても大切なもの)の象徴として詩われているんだね。

 

 

 

そうだったのかー!印象的なフレーズだと思っていたけれど、カムパネルラだから宮沢賢治でそういうのあるのかなぁなんて思っていた。

 

 

父の好きな中原中也を、米津も好きなのか、と思って浮かれた私は、ふと「米津玄師 中原中也」でネット検索してみた。そしたら、米津が2018年のライブのMC中に、今の自分の心境に近いものとして、中原中也の訳したランボーの「感動」という詩を朗読した、という記述を見つけた。ランボーとは!先日ちらっとブログにも書いたアルチュール・ランボーじゃないか!

 

感動はこんな詩。

 

   「感動」   アルチュール・ランボー/中原中也訳

 

私は行こう、夏の青き宵は
麦穂臑(すね)刺す小径の上に、小草(おぐさ)を踏みに
夢想家・私は私の足に、爽々(すがすが)しさのつたうを覚え、
吹く風に思うさま、私の頭をなぶらすだろう!

私は語りも、考えもしまい、だが
果てなき愛は心の裡(うち)に、浮びも来よう
私は往こう、遠く遠くボヘミヤンのよう
天地の間を、女と伴れだつように幸福に。

 

 

 

ライブ中に米津にランボーの詩なんか朗読されたら、感極まり過ぎて召されてしまうかもしれない。危ないところだった。

 

さらに、少し前の曲で「ララバイさよなら」という歌があって、この歌もとても好きで、その中に「バスケ 天使 素面の猿」という歌詞があり、意味はわからないけれど印象的でかっこいいなと思っていたのだが、これも中原中也の「宿酔」という詩をヒントにしているのでは?という記述も見つけた。

 

「宿酔」はこんな詩。

 

     「宿酔」   中原中也

 

朝、鈍い日が照つてて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

私は目をつむる、
  かなしい酔ひだ。
もう不用になつたストーヴが
  白つぽく銹(さ)びてゐる。

朝、鈍い日が照つてて
  風がある。
千の天使が
  バスケットボールする。

 

 

かっこいいな、おい。中也もかっこいいし、それを自分の中に取り入れて、曲を作る米津もかっこいい。たまらん。めくるめく知的官能の世界。

 

そんな陶酔感に浸りながら、ユニクロと米津のコラボTシャツ(オンラインで即完売してたので母と妹が栃木のユニクロで買って送ってくれた)を着て、ランボ―という名の犬とともに私は朝散歩をしている。