感情的価値というと、マーケティングにおいては機能的価値と対比されつつ、商品やサービスに対して「好き」「憧れる」といった理屈を超えた感情を引き起こす、目に見えない感情に訴えかける価値だそうですが。

購買意欲を惹起する要素なんですねぇ。

「私」の「要適快」といったところでしょうか。

マーケティングではマスを狙うところでしょうが、個人の所有物については、ヒトによって要適快・不要不適不快の境が違うために、千差万別で、ときに相互理解が難しくなることもありえる、そんな価値。

 

 

 

今、

夫、ひいては義母の、ごみにまつわる、「衛生 < 自分の観念」という感情的価値至上主義的な観念の有様をつらつらと考えております。

 

衛生<自分の観念

すなわち

家というハコ、家族というヒトにとって衛生的=安心安全であるコトよりも、自分の観念を張り付けたモノを、優先する。

ひいては、自分の安心安全も下位にする行為ですが。

 

一人住まいの家なら、まあ、衛生よりも自分の観念を最優先にしたって、加害者も被害者も本人だけよね。と放置一択ですが。

我が家には、複数人住んでいるわけですから、衛生を蔑ろにされる人、つまり被害者が複数になるわけです。

ところが、本人には、加害者になっているのだという自覚がない。

罪を自覚しない。という罪があろうかと思うのです。

 

本人が自覚しているのは、自分が被害者だということだけ。

私の思うようなゴミ捨てに協力しないコトは、私を貶めるコト だ。というロジックは、即ち、自分を弱者として主張し、相手を不遜と攻撃するのに等しい。

 

攻撃された側にしてみれば、目の前の相手は弱者でないのにも関わらず、いきなり自身を弱者だと主張し、こちらに非があると言ってきたわけで。

たかが、ゴミ捨てで、そんなつもりなんて微塵もなかったのに、そんな主張をされてしまうと、相手の意図が分からないまま戸惑い、なんか悪いコトをしてしまったのかも。。。と思う。

そして、「次からは気を付けるよ」と言い、白旗を挙げてしまうもの。

「いいヒト」だから。

 

 

目の前の悲劇のヒロインに、「悲劇的になって申し訳ない」とお詫びする。

すなわちそれは、悲劇のヒロインのコントロール下に置くということ。

被支配を受け入れるということ。

 

 

たかがゴミ捨て。

されどゴミ捨て。

 

日常において、「いいヒト」にとってよく分からない悲劇のヒロインごっこが繰り広げられ、日常であるがゆえに、コントロールされることが日常化する。

 

 

 

なるほど。

 

こうやって、義母は、あの家をコントロールしていたのか。と思うわけです。

 

 

結婚して以来、なぜ、義父も夫も、義母の歪な言動に対して何も言わないのか、むしろ肯定的に振る舞うのか、理解し難かった。

二人とも、非常に常識的なヒトなのに、義母と一緒の時には、義母の意向を最優先にしていました。

義母の意向が、どんなに歪であっても。

 

永年の悲劇のヒロインごっこで、義父も夫も、義母のコントロール下に知らず入りこんでしまい、茹でガエル状態だったのでしょう。

 

いや、義父も夫も、意図的にコントロール下に入ったのかも。

 

義父は、事業を傾け、義母に苦労をかけたという負い目から。

夫は、事業が傾き苦労をしていた義母を哀れに思う故に。

 

そして、その苦労が過去のものになったのにも関わらず、義母は悲劇のヒロインで在り続け、義父も夫も、そんな義母を否定しなかった。

私が嫁のくせに(笑)、横から「何言っちゃってんの イミフ」と否定して、夫を通じて、歪さを指摘していって。。。。。それで、あの「家」はどうなったのだっけ?

 

 

夫は、今の家で、主として立ち始めた。

初めて、家の主宰者としての振る舞いをするにあたって、夫はどうやら、義母を真似ているらしい。

 

手本が義母(悲劇のヒロイン)しかいないのかい。。。と思うのだけれども。

 

まあ、私も手本は、母でしたね。

そんなもんか。

 

 

夫の歪な発言はここ最近のこと。

私も子どもも、戸惑っていましたが、反撃しますよ。

即応できずとも、数時間後であっても、「それは違う」と声を上げていきますよ。

 

 

家の主宰の初心者故に、義母のマネッコするしかないとはいえ、悲劇のヒロインごっこを目の前でされるのは、御免被るのであります。

お付き合いなどいたしませんとも。

夫の成長は微笑ましいし、夫は尊重すべきと思ってはおりますが、それはそれ。これはこれ。