捨てるモノは、ここにいる、今の私と、関係性が終わったモノ。

 

たとえば、

誰かから受けついだ 先祖代々?の 思い込みの証拠品

誰かが捏造した 社会的規範?の 思い込まされの証拠品

 

私の命が、ごきげんであるための価値観ではなく、

誰かの一時のごきげんのために、私を縛り上げる価値観。

 

すべて、私の外からやってきて、あたかも大事なモノであるかのように、

私の一等地を占めているモノ。


 

そういうモノを捨てる。

 

そして

 

私の一等地を、私の命のごきげんのために、私のモノで美しく空間を彩る。

 

 

そこは分かっている。

 

 

 

 

では、「どれが、私の外からやってきて、私の一等地を穢しているモノ」なのか?

 

分からないのだ。

 

 

 

どれも、

私の人生に必要に見えるのだ。

私の人生にふさわしいように見えるし。

私の人生を心地よくしてくれるように見えるのだ。

 

 

誰かの必要は、私の必要ではなくて、

私の必要は、誰かの必要ではない。

誰かの必要は、私も必要で、

私の必要は、誰かの必要で。

そんなモノを、私の要不要の基準で捌いていくのは、なかなかに骨が折れる仕事だ。

なぜなら、私の基準自体が、「誰か」の基準が侵食しているから。

私は、私で在りながら、私で無い。

 

誰かが「捨てる」と言ったモノは、私にとっても「捨てる」モノかもしれないし、そうでないかもしれない。

 

モノを見ているだけだと、私にとって、捨てるということは難しいのだと、つくづく思う。

 

 

正直なところ

誰かが捨てたモノなど、どうでもいいのだ。

そこに私はインスパイアされない。

だって、ゴミ・ガラクタは捨てて、当たり前なのだから。

 

 

誰かが、モノに張り付けていた思い込みに気づいた。

そこに、私は、私を発見するのだ。

嗚呼、私も同じだ!と。

私と誰かのバウンダリーを、私も発見するのだ。

 

思い込みの証拠品は、私と誰かとでは違うのだけれども、

関係性の終わった思い込みは、私と誰かは同じなのだ!と。

私の来し方行く末を、同じ「思い込みを捨てる」という行為に感じるのだ。

 

それが、意識縁というものなのだろうし。

ダンシャリアンが集う楽しさなのだろう。

 

 

 

捨てたゴミ・ガラクタのモノの名称や形状が何か?なんて、どうでもいいのだ。

捨てる!と決めたときの、心の裡の整理・整頓こそが、断捨離の醍醐味で。

パラダイムシフトこそ、私が断捨離をする熱源なのだから。

 

 

だからねぇ。

捨てたモノの名称の列挙や、捨てたモノの写真に、私は興味がないのだなぁ。