家は、親のモノであって、子どものモノではない。

 

だから、住まい方について、子どもは親に物申してはならない。

不満があるのなら、家を出ていけ。

 

 

これ↑が、私にとっての「家とそこに住むヒトとの関係性」でした。

実際に、私が両親から言われたコトです。

言われたときは、親子関係は破綻していて、家は安心安全な場所ではなく、健康で快適な場所でもありませんでしたので、すんなりと受け入れました。

長じて、建物所有者が親だというのも理解しましたし。

 


家は、誰かを排除するための装置でした。

公簿上の所有者以外に、権原はない場所でした。

 

安全基地。とか、

一緒に暮らす。とか、

共に暮らす。とか、

楽しみを共有する。とか、

誰かのために在る。とか、

そういうのとは、一線を画す場所が、私にとっての「家」でした。

 

安全で健康
安心と元気
爽快感と開放感

と言われても、少なくとも自分の家にはない概念だとは分かったけれども、では、自分の家で実現できるか?となれば果てしなく違う世界のお話でした。

つまり

そういう概念が在るのは知っているし、

そういう家に住んでいる人が在るのは理解しているし、

それは絵空事ではなくて、誰かにとっての現実なのだということも分かっている。

でも、自分の身の上に置き換えると、絵空事よりも不確かで、紗の向こう、蜃気楼の向こうのお伽噺の国の話だったということです。

 

 

家とは、

TVをつけっぱなしにし、本を読みふけって、押黙って、時間が過ぎるのを待つ場所でした。

搾取され、侵略され、自分を見失わないように耐える場所でした。

自分を隠しながら、親にある程度迎合しながら、嘘くさい平和を享受する場所でした。

 

これ↑が、不健全な親子関係だからこその観念だとは理解していましたけれども、これに代わる観念が永年分からないままでした。

 

そういう場所しか知らなかったんです。

 

 

結婚し、子どもが生まれて育って。

これ↑が機能してない観念で、入れ替える必要性があることだけは、日増しに確かなことになっていきましたが、入れ替えるべき新しい観念が分かりませんでした。

 

だから、私の子どもたちにも、せっせと「この家は、ママとパパの家だから、気に入らないなら、出ていけ」と言ってきました。

 

子どもたちが、悲しそうな顔をするたびに、自分の現在地を知りました。

前よりはマシだけど、旧態依然だと。

 

 

 

 

住宅は住むための機械である。

住宅は生活の宝石箱であり、幸せをつくる機械でなくてはならない

Le Corbusier『建築をめざして』(1923)

 

この場合の「機械」とは、人によって錬られた規格で、人の自然ために作られた、手工芸品、工業製品といったところでしょうか。

作られている最中は、作り手の意志・意図を色濃く反映し、

納品された後は、作り手の意志・意図を超えて、使い手の日々を彩り、そんな記憶を留め、そこにあるものとなる。

 

「宝石箱」とは

綾なす(色彩)・キッチュ(な作品)・派手な(模様の)・ごちゃごちゃ(している)

絵具・色鉛筆・クレヨン

色とりどり・刺激的・色彩豊か(な)・多彩 サイケデリック(な模様)・派手な色模様・五彩・七彩・千紫万紅・極彩色

金襴緞子・精彩・錦織りなす(紅葉)・(総)天然色・テクニカラー・玉虫色・スペクトル・金、銀、さんご、綾錦・錦(の織り地)

ネオン(サイン)・イルミネーション

(春)爛漫・咲き誇る・咲きこぼれる・百花繚乱・百花斉放ひゃっかせいほう万彩まんさい(の花々)・花畑

日本語シソーラス 連想類語辞典より(抜粋)

 

製品としての性質を超えて、

 

時季を得て、好き好きに、咲き誇ればいい。

磨き上げて、好き好きに、光り輝けばいい。

愛おしんで、好き好きに、喜び合えばいい。

 

 

 

今、我が家の暮らしは、少し咲いていて、少し輝いていて、少し喜び合っているかもしれない。

 

家の中の散らかりが、子どもたちが何かに熱中していた証で、宝石箱をひっくり返したようにも思えてきた。

 

家の在り様を、心浮き立って、喜んで、受け止める、

そんな、今の、私の、この家を、暮らしを、肯定する生き方が、

これまで、私には欠けていたらしい。

 

モノはモノであって、逐一思いを張り付ける対象ではないし、

むしろ、思いが張り付かないように気を配らなくてはならない。

そう思っていたようです。

 

モノを愛でた子どもたちに対し、「楽しかったんだね」と受け止めればいいだけだった。

そうしたら、家の中は、いつだって、宝石箱だったのだ。


とはいえ、相も変わらず、子どもたちによる散らかりは苦痛で。

それは、私の心が散らかっていることが、苦痛なレベルだからこそ、子どもたちによる散らかりが苦痛なわけで。

それなのに、一定以上に片付けることもまた苦痛なわけで。

 

 

それでも、一瞬、子どもたちによるモノの散らかりが、宝石のように見えた。

子どもたちのモノを片付けて、美しい空間というものをもっと小まめに手に入れてもいいはずだ。とも思うけれども。

 

それで、いいじゃないか。

と思うのが、現在地のようです。