平成26年は静かな年明けであった。最近、絹産業遺産を訪ねることが少なくなったので、1月24日、老骨に鞭を打って久々に出掛けた。行く先は30年程前に初めて出会った「馬場重久翁の顕彰碑」に決めた。この碑は北群馬郡吉岡町の諏訪神社境内にある。高崎渋川線を北上し、北下の信号を左折すると「翁の墓」があり、右折して行くと明治小学校前に忠霊塔がある。その脇下に「蚕神社の石碑」がある。
馬場重久翁は、正徳二年(1712)に「蠶養育手鑑」(日本で2番目に古い蚕書)を著わし、この中に「聖徳太子の教えや蚕養育は父母の赤子を養うに似たり」などとあり、興味を引く蚕書である。
顕彰碑には、恩師、元群馬県蚕業試験場長日高八十七先生の碑文が書かれていた。
馬場三太夫重久翁顕彰碑 群馬県知事 竹腰俊蔵篆額
衆に先んじて事にあたり恩恵を先載に及ぼす業績を残すことは独り先覚の士のみがよくするところであるわれらが郷土の先輩馬場三太夫重久翁こそは実に時代の先覚者として輝かしい事績を残した人というべきである翁は甲陽の知将馬場美濃守信房の子孫で医を業としたが常に農民の福祉を念とし若年の頃より蚕の飼育について実践研究を重ねること三十余年ついに合理的な飼育方法を会得して蚕養育手鑑を著わし正徳二年江戸の書肆より出版して広く同志に頒布した時に翁は五十才であったこれは養蚕書中の古典としてわが國第二のものであり養蚕技術の進歩向上に役立ちしところ多く昭和九年今上陛下本縣に行幸のみぎりには天覧を賜わるの光栄に浴した翁はまた農事の改良に心を致し当時早くも後世の稲作品評会の方式をもって稲穂の優劣等級つけを行いあるいは手鍬に改良を加え世にいう馬場鍬を考案して耕作に便ならしめるなどこの道の発展に寄与するところ多く享保二十年七十三才を以て世を去るまで郷党を指導して倦むことがなかったこれらの故を以て北下山下地先にある翁のささやかな墓碑は昭和二十七年吉岡村唯一の史跡として群馬県の文化財保護顕彰規定にもとずく指定をうけたたまたま翁の偉業を景仰する北下地区民こぞって翁の顕彰会を結成し広く同志の賛同を得てここに顕彰の碑を建立しその功績を万世に傳え人とするに際し請われて建碑の由来を撰する次第である
昭和三十三年文化の日
群馬県蚕業試験場長 日高八十七撰
森田 精一書