私が思春期真っ只中のとき、

可愛くなりたいという一心でインターネットを開き、時にはヒリヒリしながら目に線をつけ、暑い風呂場に長い時間滞在して汗を流した。

綺麗な素肌、綺麗な二重、綺麗な顔を手に入れたくて、履歴には「可愛くなる方法」「可愛くなりたい」「可愛くなるには」時にはブススペース特徴と調べて落胆した。

誰も気づかない

私の角質が綺麗になっても、少しだけ毛穴が目立たなくなっても

人々は見向きもしなかった

むしろ思春期の肌に無数に広がる出来物と、それを似顔絵として虐める同級生。

「髪の毛結ぶの、うまくなったね笑」
と蔑んだ目で見つめる学年1かわいいと言われる生徒。

教師には名前を間違えられる。覚えられない。そしてそれを中学生特有のしつこさで絡むクラスメイト。

鏡に広がる地獄と、反射させてどこが駄目なのかを分析する日々。
 
全てが鬱だった。


卒業式の日は泣けなかった。

心底うんざりしていたのだと思う。

人格を無視した厳しい部活動にも、他者理解の逆をいく同級生にも、この社会のルッキズムの甚だしさにも。

次の日には生まれ変わる準備ができていた。

この世界でもしも外見が、人の評価対象に全く反映されないのであれば、私はまぶたに穴を開けることも耳に穴を開けることも、歯に針金をつけることもなかっただろう。

この歳になって、何の努力も背景も知らない人間が外見を評価することの愚かさ、しかしながら査定し続ける社会の現実に対する絶望もなんとなく受け入れてしまっている。

「あの子どう?可愛くない?」
人それぞれの価値観を統一しようとするこうした発言は、社会に蔓延するルッキズム的な思考と、統制的な学校教育からきているものなのだろうか。

女は、あるいは女というカテゴリーに入ろうとするものは「かわいい」という言葉に縛られている。

「ねえ前髪切った?」
「今日メイクかわいいね!」
「ネイルいい感じ〜!」

年齢を重ねるにつれて微々たる変化に気づくようになっていくのは、このおかしな社会の一片で更に更にかわいいに侵されたからなのか。

それとも単に嘘が上手くなったのか。