自分が何年、生きているか。


を気にする人は実は多い


最近年上の人と関わる機会が多い中でそうした発見があった。


それは、やはり外見の老化からくる不安や恐怖なのだろうか。


年齢を重ねれば、外見は変化する。

どうしてもその事実には抗えない。


化粧品から通販番組、美容医療に至るまで多くの媒体で老化とそれを打破する様々な商品が打ち出されていても根底にある老化を脱却するのは不可能だ。


それが生命なのだから仕方ないことだ。


ところで、人々は刺激を求める。


これは、辛いものや苦いものに需要があり、ホラー映画に需要があり、心霊スポットに需要があり、バンジージャンプに需要があり、ジェットコースターに需要があり、クラブミュージックに需要があり、有名人の不倫やスキャンダルに需要があり、危険ドラッグや脱法ハーブに需要があり、レイプ物のポルノビデオに需要がある根本の理由となりうる。

欲深い人間は、経験や知識を得るごとに「更に更に」と欲求を膨らませる。

しかしながら、経験や知識の習得には個人差がある。

365日毎日刺激的な生活を送り、様々な経験を積んだ者は、そうでない者に比べてどれほど「老ける」のか。


だから、年齢というのにも個人差があると私は思う。年齢という人間が考えた見方は、尺度であって平均である。


法律のない世界で、または古きヨーロッパのような子どもという概念がない世界で、10歳の少年が、セックスを経験し、ドラッグを経験し、酒や煙草を経験したとき、10年間睡眠と食事だけをしてきた少年と比較して本当に「同い年」と言えるのだろうか。


虐待をした母親がいた。
母親曰く「ムカついたから殴ったら死んだ」

成人して定職に就かず親を頼る男が親を殺す。
男曰く「今の自分を反論されてカッとなった」

そんなニュースを見た世間はなんというだろう。
「あんな歳にもなってみっともない」


それらは、実のところ圧倒的な経験と知識のなさから思考力が欠落しているから起きたことである。彼らが仮に30歳だとして、30年間で様々な経験から得た知識が限りなく他の者のそれと比べて0に近かった結果の、いわば必然的な出来事である。


こんな歳なのに
あんな歳にもなって

一般的に考えられる0歳
一般的に考えられる10歳
一般的に考えられる20歳
一般的に考えられる30歳
一般的に考えられる40歳
一般的に考えられる50歳
一般的に考えられる60歳
一般的に考えられる70歳
一般的に考えられる80歳
一般的に考えられる90歳
一般的に考えられる100歳

とは、なんだろう。


明確な区分はなくともそれぞれの心の中で「一般的に考えられるN歳」の感覚は持っている。


しかしながら、経験や知識とN歳は比例しない。



自分が何年、生きているか


それを探求するよりも


自分がどのくらい経験や知識を蓄えているか。


それに焦点を当ててみたら世界の色がほんの少し変化するかもしれない。