携帯が嫌いだ。
とてつもなく嫌いだ。
数十年前まで街には携帯がなかった。
電車で目線の先にあるのは文庫本でも新聞でもなく、携帯電話になってしまった。
その事実に対して寂しそうに語る母の表情は今でも眼に焼き付いている。
人の眼というのはなによりも偉大だ。
今の景色を自らの眼で体感し、そうして見た記憶は一粒一粒洗練された美しい雫として募り、やがてそれは記憶の大きな湖となって心の奥底に広がっていく。
「電車だ!!!」
と叫ぶ隣の男の子は10年後には、やはり小さな電子機器に眼を奪われてしまうのだろうか。
便利になりすぎた社会と、それに必死に適応しようと足掻く人間は時計の発達から始まった近代社会の縮図と言えるだろう。
隣に友人がいても、当たり前のように携帯を手に持つ若者たち。
実際のところ私ももう5年も前から携帯を手に生活を続けているが、私が携帯から得たのは浅はかな知識ばかりだった。
便利なツールとして、今では未開拓の地域にまで広がってしまったこの有害な光を放つ電子機器は今後も我々の眼を侵し続けるのだろうか。
幸福論について塾考したとき、私が感じるのは
「便利さが幸福に比例しないこと」
である。
便利な世の中で便利な電子機器から得た浅はかな情報が、薄黒い雫となって私の記憶の湖を濁してしまう。
携帯が嫌いだ。