「お花屋さんになる!」
「パン屋さんになる!」
「アイドルになる!」
「看護婦さんになる!」

思えば小学生時代のクラスの掲示板にはカラフルな画用紙と、無垢な字で将来の夢が書かれていた。幼い頃の狭い視野に反して、それはそれは様々な夢が小さな画用紙いっぱいに映し出されている。



成長するとともに私たちは何を悟ってしまったのだろうか。


少なくとも女として生きている自分の終着点が一体どこにあるのか考えるのを諦めかけている自分がここにいる。

日本社会で、そして様々な人と交際していく上で、一般的な、世間的な「女」の価値がどこにあるのか、嫌でも分かってしまう。というよりは、物分かりが良い人間を無意識に演じてしまっているのかもしれない。


交際をしていく上で、奢られ慣れてしまった自分。貢がれた生涯の金額は死ぬ頃にはどのくらいになるのだろうか。

ただ、そこにいれば価値がある

その女の無力さに心底うんざりしてしまう。

美しさが全てを魅了することは知っている。
その事実に反論することはきっと不可能だ。

そして社会が必要とする女の役目を担うことが多分世を渡り歩く上で重要な鍵となるし、なによりもその方が何倍も人生が楽なのも知っている。

中学に入って、女と男に明確な区別がつけられるようになる。男は女の容姿に注目し始め、やがて選別するようになる。その選別から弾かれぬように、女は女としての努力をし始める。何故弾かれたくないかは無論、弾かれた時点で他より劣ることになり、社会的身分も変わってくることを中学生ながら悟っているからである。階級社会が喪失し、比較対象が定理上同等になった世の中では、比較することが容易になったことに加え、そこに嫉妬や憎悪の感情が生まれやすくなったと言われている。

高校以降では、男は男として完成され始め、男らしく振る舞うことをある意味強要されることとなる。こうしたストレスから男は女に女らしさを求めるようになる。

石化された社会のジェンダー観を変革するのは道端の砂利をダイヤモンドにするよりも遥かに難しいのである。





どこに行くにも運転するのは男で、お金を出すのも男で、重い荷物を運ぶのも男で、組織を統率するのも男で、セックスでリードするのも男だ。

フェミニズムが騒がれる近代においてもその考えを曲げない人間は何億人もいる。


対して女は、

摘まれるだけ摘まれて美しい時期を超えると捨てられてしまう花のように

幼い頃に抱かれていた倉庫の片隅にあるぬいぐるみのように

見返りのない子どものお守りに命を燃やした老人たちのように

需要がなくなれば呆気なく、儚く、一時代は終わりを迎えてしまう。


家の整理で出てきた小学校時代の琥珀色の画用紙は私が知らぬ間に十二分に色褪せていた。