私のアルバイト先に新しい機械が導入された。接客のアルバイトのコストカットに導入されたその機械は毎日同じ音を繰り返し、正確にせっせと仕事をする。そして人間である私はその案内役としてぼーと立っている。


ある日腰の曲がった高齢者が1人でその機械を見つめていた。その後ろ姿がなんとも印象的であったので文字に起こした次第である。


彼女はその無機質で硬い機械を見つめ、ただ呆然とその場に立ち竦んでいた。機械の使い方が分からないとか、こんな機械面倒だとか臆面なく怒る団塊世代の老人たちの中で彼女はただ1人、時代に置いてかれたように、寂しく、それを見つめていた。


その時、周囲をぼやかして彼女一点に焦点が一致するような不思議で強いオーラを彼女から感じたのを覚えている。
私にはその様子がなんとなく、ただなんとなく、昔の古き良き時代と比較して、人ではなく機械に頼りまくる人間にほとほと呆れ、また人ではなく機械と話さなければならない現状に疲れ果てているように感じた。


思えば近年、硬い機械と人間が触れ合う機会は激増した。仲良い友達同士で遊んでもスマートフォンをいじり続ける若者、パソコンと毎日向き合い目を疲れさせているサラリーマン、家電を利用しテレビを見ている主婦、外国人のために発達した優れた翻訳機、電車の無人化、多くの場所で機会が活躍し、時には人と人がコミュニケーションを取らなくても問題のない環境が生まれ続けている。

時代の波に乗るのに必死な私は彼女の後ろ姿を見た時、ふと我に返った。そして、機械化が進む現代であっても先代の残してきた人間と人間との歴史を無視してはならないとあの日私は強く感じたのだ。