なぜ、恋を人工的にする必要があるのだろうか。
私は持久走が嫌いだ。
ほとんどの場合、設定タイムが設けられ、その時間に走らないと成績が下がるなどのペナルティがある。人間は一人一人違う心臓を持っていて、速く走ることができる心臓もあれば、そうでない心臓もあるのに。
自分の本意でないことを何かの基準に合わせて強制的に行わせ、更に罰を与えられることになんの意味があるのか。
だから私は持久走が嫌いなのだ。
恋も似たようなところがあると思う。
恋愛にもそれぞれのペースがあるのに、やれ適齢期だの、やれステータスだの、何かの理由につけて皆が基準に合わせようとしがちである。
そして、多くの人々はその適齢期に合わせて、「そろそろこうしなきゃ」と考えるのである。本来は自分自身のための人生なのに。
なにより馬鹿げているのはそこから外れた人間は世間から強くバッシングされるという点である。ある時は、人権まで批判するようなことをいう人々もいる。自分らしく人生を進めていけば良いのだから、世間一般と同じようにする必要はない。しかし、これ(このようなバッシング)が持久走でいうところのペナルティであるのだ。
これを与えられたくないから、世間から外れないように、「ペナルティ」を背負わないように、『真っ当な』いや、裏を返せばただ、『平凡な』人生選択をする。
恋は人それぞれである。
ペナルティに臆せず、あえてありきたりな言葉でいえば「自分らしく」楽しめば良いのである。失敗しても良い。また振り出しに戻った、なんてことはない。自分自身に負けることなく乗り越えれば、実は自分でも気付かないうちに、想像もしていない以上に、大きな山を乗り越えていることもある。
恋も恋人もステータスじゃない。
さぁ一歩一歩好きに生きなさい。