100年後には私の知り合いはいない。

きっとほとんど誰も私のことを正確に知ってる人はいない。ここで過ごした日々も、好きな場所も、嫌だった思い出も、両親もきょうだいも友達も誰1人として私を知るものはいなくなってる。100年後の今頃は私たちではない、これから生まれる何処かの誰かさんが世界を創っている。

ということは今、何をしたって何をしでかしちゃったって、世界にとって、他人にとって、もしかしたら自分にとっても、実は本当に本当にちっぽけなこと なのではないか。

今、私がここで何か大きな決断に踏み切ろうとなかろうと、挑戦しようとしなかろうと、100年後には私の存在や、今ここでした大きな大きな決断なんて覚えてるツワモノはいないだろう。

楽しむも苦しむも、人生なんて死ねば終わり。どんな凶悪犯罪者だって、偉業を成し遂げた研究者だって、死んでしまえばある程度経ってどちらも伝説となり、そして歴史の教科書にのり、史学者と受験生が必死になって覚えるひとつの名前でしかすぎなくなるのかもしれない。詳しいことは分からないけど。

ようするに、どんな酷い出来事が起きようと、大きな決断のために1万時間悩もうと、死んでしまえば誰だって一緒。100年後にあなたのその出来事や決断を恨もうとする奴も笑おうとする奴も気にする奴もいない。

気楽に。
いい意味で。