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Coconfouato 佐藤です
女性の社会進出が進み、化粧をして香水をつける人が増えた大正時代には、日本風のアレンジを加えた国産香水も登場しました
香道は、日本が誇るべき芸術のひとつとして再確認されるようになります
1912 (明治45、大正元)年、明治天皇が崩御し、年号が大正と改まりました
大正時代はわずか14年半でしたが、第一次世界大戦や関東大震災が起こるなど、社会や政治経済に大きな変化がありました
女性の就学・就労機会が増え、婦人参政権を始め、女性の権利獲得が叫ばれるようになったのも大正時代の特徴です
古い考え方や慣習を打ち破り、女性の地位を高めようとする気概を持った女性たちは、「新しい女」と呼ばれました
百貨店の店員、看護師、事務員、電話交換手等の「職業婦人」が増加すると、外出の機会が増えた女性たちにとって化粧や香水は、楽しみであると同時に社会的マナーとしても意識されるようになります
明治時代には、主に上流階級の女性やおしゃれに敏感な女性だけがつけていた香水も、職業婦人や女学生の増加によって、使う人がいっそう増えていきました
当時、輸入香水で人気が高かったのは、フランスのものでした
その頃の一般女性のほとんどはフランス語読めませんでしたが、女性たちはそんな事は気にせず、パッケージに鹿の絵があれば「鹿印」、噴水の柄があれば「瀧香水」などと呼んで愛用したようです
その後、香りに日本人好みのアレンジを加えるなど趣向を凝らした国産品が次々と発表されると、香水はより身近な存在になりました
1917 (大正6)年に発売された資生堂の香水「花椿」は、椿の花をイメージして創作された甘い香りだけでなく、西洋のモダニズムと和のテイストをミックスしたボトルデザインも人気でした
この頃には洋風の束髪の1種である「ひさし髪」が流行し、髪をこの髪型にまとめるために、様々な種類の香油が発売されました
明治時代に引き続き、香道は限られた人によってのみ愛好される文化として存続していましたが、その一方で、香道にとどまらず、香りの文化全般にわたる学術的な研究が行われるようになりました
香道の始まりについて、それまでは三条西実隆の指導で、足利義政と志野宗信が創設したと言うのが定説でしたが、1918 (大正7)年、風俗史家の桜井秀が、その説を証明できるものがないと疑義を呈したのです
そして再調査が行われ、香道は足利義教のもとで三条西実隆と志野宗信が創設したと改められるなど、歴史認識の修正が行われました
「伽羅」と言う言葉の語源についての論議も起こっています
第二次世界大戦後、文学研究者、早川甚三の「香と芸術」が刊行されると、香道は日本が世界に誇るべき芸術の1つとして位置づけられるようになりました
大正から昭和時代も、正倉院の宝物は、天皇から一般の人々にまで広く関心を持たれていたようです
明治天皇に引き続き、大正天皇も1916 (大正5)年に正倉院へ行幸し、宝物をご覧になったと言う記録が残されています
正倉院宝物展は明治時代に続いて開催され、蘭奢侍などの名香も展示されました
しかし、一般の人々の関心は、香木そのものと言うよりも、主に小道具などの工芸品に向くようになっていました
淡路島に流れ着いた1本の香木から始まった日本の香りの文化は、形を変えながら、日本独自の美意識を形成する柱の1つとして受け継がれていると言えるでしょう
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