Netflixでふと出会った映画。
現代版「細雪」みたいなお話でした。
地方でも、都心でも「親の生き方をトレースしているような人ばっかり」という言葉がなんとなく今の自分に突き刺さる。
「飛び越えてほしい」
それしか願ってないけど、
地元すら飛び出せなかった私のような人間に、大海に飛び出せるような子どもを育てられるだろうか…。
夫と出会った時、「当たり前」が共有できることがとても嬉しかった。
主人公の華子が、幸一郎とデートした時に感じた気持ちがよく分かった。
食事のマナー、お店のチョイス、お酒の嗜み方、メニュー選び、お金の支払い方、お別れの仕方、会話の内容…本当に細かいことの一つ一つが、自分の「当たり前」の延長にある、そんな人との出会いがどれほど難しかったことか。
「東京は棲み分けがされていて、違う世界の人は交わらないようになっている」
みたいなセリフもあったけれど、なるほどと思う。
私は、中受を失敗した時に、“あの学校には私の居場所がありそう”と感じた感覚が正しかったんだ。
我が家は、食事やマナーにうるさく、「東京人」としての生き方を教えてくれる家だったけれど、身を置くコミュニティが間違っていた。
平和思考で気の弱い弟は、運悪くガラの悪い同級生に囲まれてすっかり自分を見失ってしまったし、私や妹は下手に強かったせいで、周りに合わせて「ガハハ」としているうちに、多少はあったはずの「育ちの良さ」のようなものを打ち消してしまった。いや、隠さないと「お高く止まってる」「ブリッコ」と潰されるガサツな環境があった。
もしも、人を疑うことを知らない、平和で恵まれた環境に順当に身を置いていたら、私たち家族は全く違う形で生きていたんじゃないだろうか、と思う。
振り返ってみると、家族が皆、「生き辛さ」を抱えていた半生だったように感じる。
夫は育ちの良さだけが売りのような人なので、とにかく穏やかな空気が流れている。
あまりにも世間知らずな面もあるけれど、「育ち」と言うものは、お金と違って後から手に入れられるものではないので、結婚するにあたって1番大事にしたポイント。
その視点は今でも間違っていなかったと思えるし、何より、大切にしたいと思うことが似ているって、「生きやすい」。
公立高校時代に、封じ込めないと生きていけなかったもの達を、ちゃんと取り戻せる感覚がある。
一方で、本当のお嬢様と言われる人たちが、うっかり真逆のハングリー精神の塊のような人と結婚する例も良く見かけるが、その気持ちも…分かる。
「育ちの良さ」には、刺激が少ない。男らしい強さが弱い。我が家も完璧にカカア天下、本当は亭主関白に憧れてたのになぁ、と思う日も多々ある。
だから、コミュニティにいなかったような強い男に惹かれる気持ちはとても良くわかる。かつて少女漫画で不良がモテたのと同じこと。
でもでも、娘には絶対、テーブルマナーと味覚、道徳の感覚が合う人を選びなさい、それだけは口を酸っぱくして伝えたいと思う。
レールを敷くのは嫌いだけど、それだけは!と伝えるつもり。
我が家はもちろん貴族ではないけれど、家族が長年培ってきた「当たり前」を共有できる相手を探すのに、ものすごく苦労した母としては、そうした「当たり前」のベースが似たコミュニティに身を置くことの快適さをつくづく感じるから。
そして、刺激が欲しいなら、日本なんかに治まっていないで、広い世界に探しに行きなさいと、そう伝えられたら、親のトレースではない生き方につながってくれるだろうか。
価値観の合う仲間と過ごす「生きやすさ」は、時に、甘えや怠惰と評されることもある。
しかし、「生き辛さ」とは、自己否定の連続である。私はあの頃、本当に自分が嫌いだったし、居場所がないと感じていた。
当たり前に居場所があること、自分を否定しなくて良いこと、肯定した上で、さらに高みを目指せること、そんな「生きやすい」人生を子どもには歩んでいって欲しい。
それが「棲み分け」によって得られるのなら、それで良い、と思う。
それは決して、狭い世界なんかではないのだと、広い世界を見せるのが親の役目だろう、と思う。