今年も年間パスを購入して,ケンジントンメトロパークへ。

頭の赤い帽子が美しいツル(sandhill crane)。読書の顔を上げたら2メートルくらい近くに寄って来ていて...横顔を凝視すると,クチバシにある鼻孔がキレイに見えた。
 
この公園はうちから車で20分もかからないので,今年は毎週1回出かけようと夫と話し,既に4回出かけた。新芽が茂り,木陰がよい感じになってきた。
 
チキンサンドイッチと果物,紅茶で昼食を済ませてから,読書とウォーキング。少しだけジョギングして,日光浴(ビタミンD)をする。最近ヨガに行き始めたので,公園でヨガもやりたい。
 
ウォーキングしている時は,ここはドイツの森の中...と言い聞かせる。去年の今頃はドイツ旅行だった。マロニエと一面の菜の花畑。100基を超える風力発電機。機関車。ネズミ捕りとトイレの博物館。ライン川。堅信式。オーストリア。リンダーホーフ城。ノイシュヴァンシュタイン城。オーバーアマガウ。ヴィース教会。修道院。園芸博覧会BUGA。テュプケのパノラマ画美術館。ホーンシュタイン城跡(12世紀)。ドイツパン。アイスクリームやケーキ...またいつか行きたいので,ドイツ語を勉強しないと...。
 
先日の夕方,湖畔で油絵を描いている女性がいた。話しかけてみると,「明日から一か月間個展をやるのよ」と案内のメモをくれた。気になる人には積極的に声をかける。
 
私の油絵の道具は,長崎の先生の家に置いたままになっていたと思う。展示会に出したり,結婚式のお祝いに同僚に描いてあげたりもしていた。仕事が一番苦しくて,過労で入院した頃に,油絵に出会った。これもまた始めたい。
 
うちの近所には元音楽教員(Farmington schools公立学校/幼稚園から高校まで指導)が住んでいる。夫は声楽を習いたいと言っていて...そんなら私もピアノを再開したい。先日ちょっと話してみたら,お宅にはお世話になっているからレッスン料は不要だと言われた。それは困る。絶対に払うので料金を提示して下さいとがんばるが,向こうも向こうで絶対に要らないと言い張る...これではレッスンは受けられない。
 
いい先生を見つけるのは難しい。私が探しているのは,日本でもアメリカでもどんな場所でも通用する,生徒の人種を問わず同じレベルで教えられるホンモノの先生だ。誠実で,地に足のついた方。キラキラしていない人。

在米日本人のみを対象にしたビジネスはそれはそれで成り立っているが,何故そこは日本人しか対象にしていないのかを考える。
 
その指導者が「日本に住んでいる日本人」や「日本に住んでいるアメリカ人」,「アメリカに住んでいるアメリカ人」,「アメリカに住んでいる日本人」の全てに通用するかどうか。

ましてや,自分で自分のことを先生と呼んでいたり自画自賛(生徒さんにほめられたという間接的な宣伝も)しているようでは...。案内文に「お教室」と書いてあったり絵文字が炸裂していると,そこで判断がつく。
 
英語や日本語は下手で構わない。その道のプロであることに尽きる。(聞いたこともない)民間の肩書きをたくさん持っているとか長年やっているとか(日本人にしか通用しない等),スピリチュアルがどうとか,教室や先生の服装が異様にオシャレだったり,授業料がただ安かったり,飲食物を出してくれたりとか...そういう枝葉は一切要りません。

近所にこの教室しかないとか,この先生しかいない(何らかのしがらみ付きで断れない)といった妥協も以ての外。時間とお金の無駄という問題だけでなく,自分のスタイルの根本に影響してくるから危険です。

日本では教員免許を取得し,採用試験に合格し教壇に立って初めて先生と呼ばれる。弁護士や医師でもそう。しかし,そこに至っていない人達が集まって,お互いを「先生」と呼び合う閉鎖された空間もある。一生懸命,チカラを合わせて間違い続ける。その独特の狭い常識や組織から出ることはないので,似た者同士の中では尊敬を集め地位も高まる。自分はスゴイ人のような錯覚に陥るが,外から誰も指摘しないから。居心地がいいんですね。マルチや新興宗教にも似ている。そこに所属していても成長はない。

逆に,免許も資格も要らない趣味のために民間の資格(販売権)を十数万円出して取る。人に教えるために,だ。数日で誰でも取れる資格に何の意味がある?資格神話?キレイなラッピングペーパーのような資格や免許であり,それを発行している会社がなくなればそれまで。そこまでして意味のないものにすがりつく。

アメリカに住んでずっと不思議に思っていたのだが,日本人はこの矛盾に気づいているのか,それとも気づかないふりをしているのか,ということ。

人生は短い。自分の時間をいいものにしたいと思う。