日本の学校は新年度。


子どもの頃,公立学校(小・中・高校)の教員をしていた伯母・叔父らがよく「教え子」という言葉を使っていた。別に自慢話をしていた訳ではないのに,強い違和感を抱いたのを覚えている。「私は,佐藤先生の教え子です」と生徒側が敬意を示して言うのならよいのだが,「中村君は俺の教え子だ」は不遜だろう。


当時は小学校でも2年間持ち上がって同じクラスを担任するのは普通だったが,たった1年間(230日程度)学校で接するだけで,担任が変わればもう廊下であいさつするくらいになる。「教え子」という言い方は「弟子」のように住み込みで働かせ,人生についていろんなことを師として教え導いた感じがする。

 

私は,「~小学校で受け持った子」とか「6年の時担任した児童」という。「教え子」という言葉をどうしても使いたい人からは「影響力があるような教育もしてないから,教え子だと呼ぶ自信がないだけだ」といった反論もあろう...。

 

10数年前に,中学の数学教員をしていた伯母が初めての海外旅行に出かけた。70代にして初の海外旅行先はスイス!しかも,教え子が連れて行ってくれるとかで,一時帰国した時には買ったスーツケースなんかも嬉しそうに見せてくれた。ここまでくると,もう師弟関係を越えた感じがする。 


「先生」という言葉も然り。「『山田先生にはお世話になりました』って教え子から今も慕われていて」とか,平然と言う人は恐ろしく恥ずかしい。聞いているこちらが赤面してしまうが,自分は立派な人間であると認められたとか感謝されたとか自慢するのが嬉しいのだろうなぁ。自信がないからわざわざ口にする。お世話になったと言っても大した話でもなく,そもそも本当に立派な人はこんなことは口にしないから。もうメンドウ臭いので,「さすがですね!」と感銘を受けたことにしておけばよい。

 

聞いている方はうらやましがっているのではなく,いたたまれなくなっているのがわからないんですね。素晴らしい先生なら何も言わなくても,生徒には通じている。SNSではなく,生徒の心の中に静かに残る。  

 

日本では,学校の教師も医師も弁護士も,政治家だって先生と呼ぶ。さらに,手作り教室なんかで教えてくれた人にも,先生。「さん」では対等過ぎて敬意が足りないということなのだろう。


アメリカのクラフト店で講師をしていたが,だーれからも名字でMrs.TanakaとかMs.Yamadaなんて呼ばれなかった。ErikoとかYumiのようにフツーに下の名前で呼ばれる。肩ひじ張らず,対等!日本人相手のクラフト教室(クラフト講師には免許も資格も不要だし)でも,別に先生と呼ばれる必要もないので…。「田中先生でなく,田中さんでいいですよ」とこちらから言わない限り,生徒さんも気を遣って「~先生」と呼んで下さるから。


嗚呼,「先生って呼ばなくていいということは,大したことを知らないし,教えてもくれないからですね」と解釈する人もいるかも...。どう説明しても歪んで解釈され,全く通じない訳です。ホントに良い先生かどうかを見抜けないでどうする?


くどいようですが,ペーパークラフトには敬称も肩書も資格もない。これについては,別の記事で書きたいと思う。

 

日本人学校で講師をしていた時,「先生と呼ばれたかったから」という理由で講師になった人が何人かいた。…驚いた。肩書と権威のためにだという!もし自分の手術をする医師が「先生と呼ばれたかったので医者になった」なんて言ったら...! 

 

「先生と言われる程の馬鹿でなし」ということわざがある。内心ではバカにしていながら,人を先生と呼ぶことも多いことから,先生と呼ばれていい気になっている人をあざけるという意味。もう一つ,「先生と呼んで灰吹き捨てさせる」は,先生と呼んでおだてておいて,嫌な仕事をやらせるという意味のことわざ。いずれも,いい意味ではなく,「先生」と呼ばれていい気になっている人を見下したものだ。

 

「先生」という呼び方は本当にメンドウだ。アメリカでは,人を呼ぶときも自分が呼ばれる時も,ファーストネームの呼び捨てでOKなので,ラクチン。博士号を取得した人にはDr.の敬称をつけるが,これはもう趣味でクラフトを教えているレベルとは比較のしようがない。


何でもかんでも「先生」と呼んだり呼ばれたりして,おだてておだてられ,独特の空虚な狭い世界を作る。実力や人格などの中身が伴っていなくても。