ある日本人の方から「海外の土曜学校の通知表は,日本の学校では効力がないのですよね。どうしてなのか」と聞かれた。
…それは,もちろんそうですよ…。
国語で作文を書く単元がある。作文単元は基本的に学期に1回なので,年にわずか3回。講師は皆持っている指導書であるが,果たして読んでいる人はどれくらいいたのか甚だ疑問だった…。そういう大きな危惧があったので,単元が近くなると学年主任として単元ごとに指導目標をタイプしたプリントを配布し再確認していた。
それにも関わらず,ある作文単元でAさんは「作文は時間がかかるから飛ばした」と言い,Bさんは「宿題にした」と言い,Cさんは「班で得意な子1人に書かせた」と。…言葉がなかった。
「時間がないから飛ばした」→「飛ばす」というのは「急ぐ」というのではなく,「しなかった」ということだ。時間がないって…一番すべきことをしないで一体何に時間を使っているのか?では,どうやって作文の評価をしたかというと,多分宿題の日記か夏休みの絵日記だったと推測する。
「宿題にした」→親の支援があるので,これは児童自身の作文能力ではない。上記と同じく,通知表にはつけられない。
「班で得意な子1人に書かせた」→Cさんは「得意な子が喜んで書いてくれて!」と嬉しそうだ。得意な子はますます得意になるだろう。不得意な子は,書く機会すら与えられないので,ますます苦手になる。この子達がその時間に何をしていたかと言うと,作文に添える絵を描いていたとか。
A・B・Cさん全員の共通点は,この授業で何の指導もしていないということだ。
それでいて,通知表は出すわけなので…信頼性があるかどうかは自明の理。
さらに,驚くのはこれだ。
Dさんは,「通知表のつけ方だけど,通知表の用紙を広げて上の項目からフィーリング(その時の気持ち)で押していくんですよね?」と○の印鑑をささっと動かす真似をして真顔で聞いて来られた。…まさか。教員免許を持っていると言っていたので安心していたが…。締め切りは来週だ。「市販テスト・漢字小テストなどはもちろん,授業中の発言やワークシートなど総合的に評価する」と説明したが,テストの成績を記録していないような雰囲気があり…恐ろしくてもう何も言えなかった。
時間のかかるものを飛ばしたり,苦手な子にさせなかったりするのだから,授業はスムーズに進んでいるように見えるだろう。講師も苦労(指導)しなくていいし児童は苦手なことをしなくていいのだから,「間違った『先生,大好き』」の意識を子どもに持たせてしまう。
得意な子どもにさせるのは,放っておけばいいのでラクだ。例えば,学年(学級)代表で学期末に作文を発表する児童がいる。Eさんは,「うちのとっておきの精鋭を出したから!期待してて」と嬉しそうだ。
私は,そういういつも選ばれる子は一度も選んだことがない。「これまで代表にはなったことがないが,できる力があり,がんばらせ自信を持たせたい子」を選ぶ。当然指導は大変だ。作文がようやくできたら,今度は休み時間に体育館に連れて行き,ステージに上げて2人だけで練習する。私は体育館後方に立ち,声の大きさや間の取り方などを大声で指導する。外部からの評価は「クラスで一番があのレベル?あの先生は大したことがない」と低いだろうが,そんなことは構わない。終わった時の子どもの達成感は大きくぐんと成長する。保護者の方から感謝の手紙をもらうこともあった。
教育は,派手なパフォーマンスではなく,地味で忍耐を伴う。
講師の教育観がいい方向に変わっていることを願う。
…それは,もちろんそうですよ…。
国語で作文を書く単元がある。作文単元は基本的に学期に1回なので,年にわずか3回。講師は皆持っている指導書であるが,果たして読んでいる人はどれくらいいたのか甚だ疑問だった…。そういう大きな危惧があったので,単元が近くなると学年主任として単元ごとに指導目標をタイプしたプリントを配布し再確認していた。
それにも関わらず,ある作文単元でAさんは「作文は時間がかかるから飛ばした」と言い,Bさんは「宿題にした」と言い,Cさんは「班で得意な子1人に書かせた」と。…言葉がなかった。
「時間がないから飛ばした」→「飛ばす」というのは「急ぐ」というのではなく,「しなかった」ということだ。時間がないって…一番すべきことをしないで一体何に時間を使っているのか?では,どうやって作文の評価をしたかというと,多分宿題の日記か夏休みの絵日記だったと推測する。
「宿題にした」→親の支援があるので,これは児童自身の作文能力ではない。上記と同じく,通知表にはつけられない。
「班で得意な子1人に書かせた」→Cさんは「得意な子が喜んで書いてくれて!」と嬉しそうだ。得意な子はますます得意になるだろう。不得意な子は,書く機会すら与えられないので,ますます苦手になる。この子達がその時間に何をしていたかと言うと,作文に添える絵を描いていたとか。
A・B・Cさん全員の共通点は,この授業で何の指導もしていないということだ。
それでいて,通知表は出すわけなので…信頼性があるかどうかは自明の理。
さらに,驚くのはこれだ。
Dさんは,「通知表のつけ方だけど,通知表の用紙を広げて上の項目からフィーリング(その時の気持ち)で押していくんですよね?」と○の印鑑をささっと動かす真似をして真顔で聞いて来られた。…まさか。教員免許を持っていると言っていたので安心していたが…。締め切りは来週だ。「市販テスト・漢字小テストなどはもちろん,授業中の発言やワークシートなど総合的に評価する」と説明したが,テストの成績を記録していないような雰囲気があり…恐ろしくてもう何も言えなかった。
時間のかかるものを飛ばしたり,苦手な子にさせなかったりするのだから,授業はスムーズに進んでいるように見えるだろう。講師も苦労(指導)しなくていいし児童は苦手なことをしなくていいのだから,「間違った『先生,大好き』」の意識を子どもに持たせてしまう。
得意な子どもにさせるのは,放っておけばいいのでラクだ。例えば,学年(学級)代表で学期末に作文を発表する児童がいる。Eさんは,「うちのとっておきの精鋭を出したから!期待してて」と嬉しそうだ。
私は,そういういつも選ばれる子は一度も選んだことがない。「これまで代表にはなったことがないが,できる力があり,がんばらせ自信を持たせたい子」を選ぶ。当然指導は大変だ。作文がようやくできたら,今度は休み時間に体育館に連れて行き,ステージに上げて2人だけで練習する。私は体育館後方に立ち,声の大きさや間の取り方などを大声で指導する。外部からの評価は「クラスで一番があのレベル?あの先生は大したことがない」と低いだろうが,そんなことは構わない。終わった時の子どもの達成感は大きくぐんと成長する。保護者の方から感謝の手紙をもらうこともあった。
教育は,派手なパフォーマンスではなく,地味で忍耐を伴う。
講師の教育観がいい方向に変わっていることを願う。