土曜学校の国語の時間のことです。小学1年生に「…やはり,…」と新しい国語教材を読み聞かせていた時,「先生!『やっぱり』の間違いだよね」というAちゃんの声。

「やっぱり」は普段使っているけれど,「やはり」は読んだことも聞いたことがないのです。

話し言葉と書き言葉は,全く違います。低学年の子どもの作文(日記のように話しかける形式)で,「あんまりうまく(ピアノが)ひけないとおもったけど,ちゃんとさいごまでがんばったよ」はよいでしょう。あくまでも,平仮名・片仮名を習い,文を書き始めた子どもの場合です。

土曜学校の小学1年生の試験問題で,「雨がふっています」という正答に対して,「雨がふってます」は×に採点するように解答に書かれていました。本文中から答えを抜き書きする問題ではないのに,部分点のある△ではなく誤答の×ですよ…正しくは「雨がふってます」ですが,かなり厳しい採点基準といえます。しかし,現実はこれです。

お子さんが「日本語は話せるし漢字も書けるから,文も書ける」というのは大きな間違いです。文を書くというのは,知っている単語をつなぎ合わせる作業ではありません。

字が雑な場合はどうしてもそちらに目が行き,誤字・脱字が多ければその注意で親や先生は大忙し!学校の限られた作文の時間は,字の添削授業になり果てるのです…。これでは,作文の勉強をしたことにはなりません。

しかも,先に書いたように家庭で使う言葉は非常に限られています。「学校に行く」は使うけれど「登校する」は使わない人は多いでしょう。語彙を増やすテキストを使うなり,きちんとした指導を受ける必要なりが出てきます。

アメリカに来て強く感じたのが,「要点がわからない日本語の文章が多い!」ということでした。3行で済むことを10行くらいでくどくどと説明している,的確な言葉があるのにそれを使っていないので意味が伝わりにくい,よけいな情報が混じっている,話し言葉で書かれている等。「お子さんをドロップオフ(ピックアップ)する」はまだ許容範囲だとしても,何故か「cutして下さい」と英語が混じっている文書まで…。

大学を卒業する前,正式な依頼文書を書く練習の機会がありました。「あなたたちはこれから就職する(ほとんどが教員)のだから,きちんとした文書が書けなくてはならない」と,心理学のゼミの教授に言われました。できた全員の文書は私のも含め,それはそれはひどいもので,教授はあきれ返っていらっしゃいました。徹底的な指導を受けたお陰で,教員時代は膨大な文書(保護者向け・教員向け・教育委員会向け等)を書くのが苦痛ではなくなり,むしろ楽しいものに変わりました。

うちの主人は副業の副業が物書きです。かつてはラジオや新聞社数社で記事や,テレビのニュース原稿も書いていました。まれですが,見知らぬ方から「テレビでニュースキャスターをしていた人?」と声をかけられることもあります。とにかく,趣味は書くことで,読むことが根底にあります。読書をしたら要約をノートにまとめ,さらに気に入ったフレーズを別のノートに書き写しています。

私の高校3年の時の担任は,国語教師でした。もう古稀を迎えられた今でも,知らない言葉や気に入った表現が出てくれば,ノートに書き留めているそうです。私が渡米してからも,できの悪かった生徒に「日本語を勉強し直し!」と,国語辞書や現代文の参考書などたくさん送って下さいました。

「書き写す」という行為は,実にアナログだと思う方もいるでしょう。驚くことに,鉛筆も紙もそこにあるのに,英単語1つをカメラでパチリと撮影する方を多く見ます。もしかしたらブログにアップするのかもしれませんが…テクノロジーは進化しても,覚えるのは人間,自分の脳なのです。自分の字で書いてこそ,初めて自分のものになると思います。