
リリウオカラニはカラカウア家のカパアケアとケオホカロレの子として1838年9月2日、ホノルルに生まれた。当時のハワイ王国では親睦を図るため、各首長間で相互に養子を交換する風習があり、リリウオカラニも2歳の時に、有力な首長のひとりであったパキとカメハメハ1世の孫コニアのもとへ養子に出された
。
4歳になると「首長子弟学校」と名付けられたローヤル・スクールに入学し、他のホノルルの王族とともに英語や音楽などを学んだ。幼少より好奇心旺盛でお転婆な性格であった
リリウオカラニは、ハワイ諸島の島々を巡り、史蹟や雄大な自然を見てまわるのが好きだったという
。
1860年、米国出身の白人で、後にオアフ島知事となるジョン・O・ドミニスと結婚した。
この時代のハワイ国王家は短命の者が多い。1873年にカメハメハ5世が死去して直系が断絶、後を継いだルナリロも翌年死去すると、血縁者の中からリリウオカラニの兄カラカウアが選ばれて即位。リリウオカラニは1877年に女性で初の王位継承者となった。
1887年、英国女王ヴィクトリアの在位50周年祝典への招待を受け、ハワイ王妃と共に国王の名代としてヴィクトリア女王に謁見した。しかし、この機に起こされた共和制派のクーデターにより、カラカウアは新憲法(銃剣憲法)への署名を余儀なくされる。これは国王の権限を大幅に制限し、議会へ委譲するものであったが、参政権が一部の富裕層にしか与えられていない現状では、ハワイ人・アジア人の参政権排除と受け止められた。さらに、王政派のW・ギブソン首相も国外追放となった。
1891年、カラカウアが渡米先のサンフランシスコで客死すると、リリウオカラニは女王として即位、共和制派との対決姿勢を強めた。1892年、ハワイ人らの新憲法制定の請願を受け、1893年1月14日、国王権限を強化する憲法草案を閣議に提出して否決された。
1月16日、王政派と共和制派が共に大集会を開くなど騒然とする中、危機感を募らせた共和制派は、米国のスティーブンス公使の要請によりアメリカ海兵隊がイオラニ宮殿を包囲、翌17日には共和制派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言した(ハワイ革命)。
