こんにちは!!!
(すこし重ためな内容なので嫌な方はスルーしてください。)
先ほど宮城から帰って参りました。
もう、宮城の復興支援コンサートに参加できて本当に幸せでした。
そして、この東日本大震災を絶対に風化させてはいけないと強く感じた、そんなコンサートでした。
翔くんが挨拶の時に泣きそうになっていてこらえていたのがとても印象に残ってます。
みんな、こんな悲しい思いはしたくないと思っています、もちろん。
翔くんはキャスターとして2011年3月14日にzeroに出演してました。
私たち以上に被災地と向かい合ってきて、取材して色んな想いがあるんでしょうね。
翔くん(松本さんもだったかな…?)が空の方に向かって「僕たちの歌が届いていたらいいな」って。そう言ったんです。
ココアが参戦した22日は雲が1つもなくて。
空を遮るものがなにもありませんでした。
きっと嵐さんの歌声、想いは届いてると思います。
地元の高校生との合唱もとても響くものがありました。
この合唱もきっと空に届いていると思います。
私事ですが、1995年の阪神淡路大震災で両親、祖父母は被災しました。
両親の住んでいたマンションは倒壊しませんでしが、周りのマンションや一軒家はほとんどが倒壊。亡くなったかたも沢山いたそうです。
ココアはその時、母のお腹の中にいました。
母は怪我をしてまでも、お腹の中にいるココアを必死で守ってくれたんです。
阪神淡路大震災では妊娠してるお母さんたちのお腹に物が落ちてきたりぶつかったり、お母さんが亡くなってしまいそのままお腹のなかで命をおとしてしまった子達がたくさんいたそうです。
そう思うと、母には感謝以上に想うことがありますね。
本当にありがとう。
お腹の中で亡くなってしまった、同級生の子達の分まで一生懸命生きていこう。そう心に誓ったのは小学校四年生の時でした。
当時、ココア達が小学校四年生ということは、阪神淡路大震災から丸10年の時。
阪神淡路大震災の年に生まれた学年として、色々なところにお話を聞きにいったり、震災のあとに神戸を元気にしようと作られた歌を歌ったり様々なことをさせていただきました。
そのときにある女性が「当時ね、私のお腹の中にも赤ちゃんがいたの。でも私がタンスの下敷きになっちゃって、赤ちゃんは亡くなってしまったのね。生きたいたらあなたたちと同じ年齢だったと思うと涙が止まらなくて。素敵な歌をありがとう。きっとあの子も天国で喜んでると思うわ。あの子の分まで宜しくね。」と言われたんです。
そのときにこうやって普通に生きている有り難さ、幸せを生まれてはじめて感じました。
母や父は当時の震災の様子を写真に撮ったそうです。
でも一回もそのアルバムを見たことはありません。
見せてほしいと一度お願いしたことがありましたが「駄目だ」と言われました。
思い出すのが怖いと母は言いました。
写真を見ると全てを思い出してしまうから怖いと。
それだけ被災者には強烈にそのときの風景が残っているんです。
心のどこかにどれだけ時間がたったとしても傷が残っているんだなと感じます。
でも、こうして嵐さんが宮城でコンサートをすることで色々なところが活気づくことはとても素晴らしいことだなと思いますね。
それもこれも本当に宮城県知事が嵐さんにコンサートしてほしいとオファーしなければ実現しなかった。
にのもいってましたが県知事に感謝ですね。
さぁ、今日はBLAST最終日ですね!!!!(急に)
東北の空に嵐さんの声が今日も届きますように
また、ココア的なざっくり萌えポイントを書きたいと思います。
すこし重たい記事になってしまってすみませんでした。