統合失調症な私がブログを書いてみた。 -11ページ目

統合失調症な私がブログを書いてみた。

統合失調症な私が通院や訪問看護の記録、薬との付き合い方、親の役目、友達・・・様々綴っていきます。

昨夜は涼しかったから、よく眠れたんだと思う。お陰様で体は楽だ。先週は仕事と用事で体が疲れてたけど、体調がよくなって助かった。

でも夢を見た。元旦那は夢によく出てくる。子供の為に離婚するんじゃなかった、という思いが押し寄せてくるような夢をよく見る。子供は今の現実より幼くて赤ちゃんだったりする。遠く離れたところに住んでいるし養育費ももらっていない。まだ方法はあるし行使する術もあるので心配はいらない。

だから、というわけではないが、今の夫と上手くやっていきたいと思っている。安定した生活を失うことで、子供の精神的な不安をこれ以上増やしたくない。

果たして、上の子は幸せなんだろうかと考える。

わからない。本当の父親に会えないことは不幸だと言える。だけれど、本当の父親といて幸せになれていたかといえば、それはもわかることではない。

ただ一つ言えるのは、私の病気がわかったことは、子供の幸せにもつながることだったと思う。

病気、と一言でいっても、いろんな病気があるし重さもいろいろだ。

自分で制御できないような重症も、そうでない程度の軽度な場合もある。

そもそもの話、生活に支障をきたした時に「病気」と名前がつくようになる。そこは体の病気も同じだと思う。

要するにこじらせてしまった時が問題なのだ。

自分では治せないくらいになってしまった時にどうするかが問題なのだ。

風邪だってそこは同じ事が言えるんじゃないのか。風は万病の元なんていうじゃないか。

自分では手がつけられないような状態になると、人様に迷惑をかけることになる。

そこから、一人でも自分の世話ができるようになるまで回復する。さらに、人の世話とか、仕事ができるようになるまで回復する。

私はドンキホーテか。

心の病に理解のない者を仮想敵としてこの文章を書いている。

病気になる人は自分の人生の重みに耐えられなかった人である。重さも違えば重さに耐えられる体力も人それぞれだ。そんなことで、と言われるようなことでも心を病む人はいる。

その弱さを責めたところで仕方がないし、闇を深くするだけなのだ。

弱いものを支え寄り添う。

人として当たり前のことだと考える人がいる。その人達に助けられて今の私がいる。

その反面、弱いものを排除したり、コントロールしたりしようと考える人もいる。弱さというものの一面しか見られない人は、弱さの裏にある強さや優しさを想像できないのではないか?

人間は多面体だ。紙も反面では存在できない。裏と表があって一枚となる。

見えない部分にある健康の種を信じることで、その人の別の側面が見えるようになるはずだ。