小3次女がマイコプラズマに感染して、学校お休み中。
私も仕事お休み中。
時間ができたので、久しぶりに教科書以外の本が読めた
自分とか、ないから。
教養としての東洋哲学
著・しんめいP
サクッと読めた。
読んでみて、今の私に東洋哲学は必要ないかもという結論に至った
壮大過ぎるだろ…鼻毛w
わかっちゃいたが、本を読んでそういう考え方もあるのかと思いながらも、自分の中で自論があるし、今から悟りをひらこうとも思っちゃない
教養としての東洋哲学って書いてあるし、それでいいと思う。
幼稚園の頃には、なぜ人は生まれ死ぬのか、死んだらどうなるのか考えている子でした
人に聞く訳でもなく、1人で悶々といろんなことに疑問を持ち、考えていた哲学的な幼い頃の私。
なんで鼻が付いてるのか。なぜ穴じゃだめなのか。人それぞれ鼻の高さが違う意味は何だとか玄関の鏡をずっと見ながら悩み考えていた小学1年生
悩みすぎて、本当に必要か自分の鼻を切り落として試さなくて良かったよ
思春期も悩み抜いた。
アイデンティティ確立の為、きっとみんないろんなことを思い悩むよね。
44歳の今の私、何も悩みが無い。
後退してるのか、考えるのをやめたのか、悟ったのか…
疑問に思うことはスマホで調べるし、昔より自己完結が早い。
子供の頃に思ったような疑問は「そういうもの」って片付けられるようになった。
死=無だと思っている。
死後は魂が寝ているのと同じ状態になり、また時間が経つと転生して肉体を持つ。
輪廻はあると思う。
ただ、お花畑の楽園だとか、天国だとか宗教的な死後の世界を信じていない。
持論・どうせ死んだらずっと寝ていられるから、生きているうちはコツコツ笑って生きよう
子供が産まれてから、悶々と悩んだり考えてる余裕も無く、次々といろんなことが起きていくうちに、全てを受け入れるしかなくなった。
割り切れるようになった。
本のタイトル通り、自分なんて無い
母が亡くなった後、闘病で痩せて苦しんだ母の顔しか思い出せなくなった。昔の写真を見ても、最期の母を思い出してしまう。
キャパオーバーの介護をし、別れを経験し、バーンアウトしてしまった。
10年の歳月を経て、夢に出てきた母が穏やかに笑っていて、あの時の幸福感と自然に流れる涙は一生忘れないと思う。
仏壇の写真の母がちゃんと笑って見えた。10年ずっとふくよかで笑った母の写真なのに、私にはそれが見えなかった。脳って、バグるのよ。
仕事で接している世間的には不幸と思われる生い立ちの人でも障害の人でも病気の人でも、笑顔はちゃんと引き出せる。
一瞬でも人の笑顔が見れたら、今のままで私は幸せ
とにかく、私は人に笑ってほしい。
その為に、私は今日も笑う。
誰かが笑えば、きっと宇宙も鼻毛も笑っている。