前回の続きです。


『薬剤性の前向性健忘』2020.07.30〜2020.11.19診断名:痙攣重積、自己免疫性辺縁系脳炎疑い合併症:抜管後嚥下障害、反回神経麻痺、右腓骨神経麻痺、右1/4半盲などなど…リンクameblo.jp

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今思い出してもあの頃の恐怖は震える。

例えば幼馴染の親(あなたの事は知ってますよ!って状態、でも私は小さすぎて覚えてない)数人と共同生活をしているような状況。

そんな精神的にも苦痛な状況に検査、治療の苦しい日々の上乗せ。止まらない痙攣。歩けない絶望。水すら飲み込めない苦しさ。伝えたくてもカッスカスの声しか出なくて伝わらないもどかしさ。


私だけ障害発生地点に取り残されて私以外はみんな時間が進んでいる気がした。


それでもどうしても自分の病院(入院先の病院と近隣でありたまに勉強会で行き来していた)の理学療法士としての着飾る自分がいた。



誰も分からない。名前もわからない。顔も分からない。覚えられない。

でも笑顔で対応した。基本的には良く笑う人だったと思う。


リハビリでもらったプリントをコツコツこなし…

こんな簡単そうなものでも1問に1時間近くかかった。





見落としが多くて数が数えられなくて3回もやり直しをくらった。笑


そんな状態。

でも大好きな折り紙をやろうと頑張ってみた。

写真は肩の手術の時に作った配薬ボックスとカピバラ。(肩が痛いのにほぼ片手くらいでよく作ったもんだ。笑)




簡単なものから始めよう。

…………………図解が分からない。YouTubeに切り替えた。

…………………何を言っているのか分からない。


初めの三角に折るのか、四角に折るのか。それすらよく分からない。


また心が折れた。分からない。分からない。

折れない。作れない。


呆然とした。泣きたかった。暴れたかった。

もし自分が医療従事者じゃなかったら精神科送りだろうと暴れていたかもしれない。



明るく振る舞ってリハビリにも積極的に取り組んでいたけれどある日私の心に限界が来た。


どうしても夜というのは不穏になりやすい。

今までになく孤独を感じた。

毎日が孤独であったのにあの日に何があったのかは覚えていない。


でももうどうにもこうにも入院の継続が難しかった。孤独で死んでしまいそうだった。


2本刺さってる点滴を自分で引き抜いて歩けないから壁の手すりに身体を預けながらなんとか重症部屋を出た。すぐにベッドのアラームが鳴るけれど夜勤の看護師さんは手薄であり少し来るまでに時間が掛かった。


道もわからない。そんな時にエレベーターが見えた。エレベーターまで行けば逃げられる。そう思って一心不乱に手すりにしがみついて進んだ。


看護師さんが懸命に説得している。けれど私の耳には入ってこない。そんな初対面の人(本当は初対面じゃないけど…)に言われてももう私は限界。

私を静止する看護師さんは気が付けば2人に増えていた。


今考えると手薄な中本当迷惑野郎ですね。申し訳なかったですm(_ _)m


あと手すり1本分でエレベーター。と思った所で気が付いたら3人になっていて男の人が増えていた。

痛っ!何か痛みが走った。でも一生懸命前に進んだ。

それでも懸命に手すりにしがみついた。

痛っ!また痛みが走った。


あの時は一生懸命すぎて分からなかったけれどかなり汗だくだったところを見るとかなりの時間抵抗していたのだろう。



そして力が抜けて車椅子に座らされた。

多分痛みは鎮静剤だったのだろう。


意識がやや遠のく。

そして目が覚めた時に何が起こるかわからない、また点滴の自己抜針のリスクから両手拘束、ミトン、体幹抑制となった。



鎮静はもともと抗痙攣薬などなどの影響で効きにくいのか数時間で覚めた。


起きて全く身動きが取れない。手が動かせない。ベッドに張り付けられている。


さらに怖くなった。

殺される気がした。でもうっすら自分がしでかしてしまった事を覚えていた。


でもここまでしなくても…殺される。もう死ぬんだ。でももうそれも悪く無いか。

そんな事さえ思い始めた。でもパニックになって過呼吸を起こした。

そんな中私はミトンの外し方、手首抑制の外し方は心得ているので器用に自分で外した。

体幹はマグネットが無いと外せないので外れない…

過呼吸になって苦しくて苦しくて死なない事は分かっていたのにナースコールを押してしまった。



体幹抑制を外してもらい車椅子に座ってナースステーションで過ごすことになった。

壁と机(動かないようにロック)の間に閉じ込められて1人の看護師さんがつきっきりで話を聞いてくれた。



初めて人前で泣いた。親の前ですら子供の頃を除いて泣いたことなんて無かった。

泣きながら今の怖い気持ちを訴えた。何もわからない恐怖、孤独感。色々訴えた。


看護師さんは静かに聞いてくれた。

その日を境に私の元へ来る人は職種と名前を教えてくれてこれからやる事を伝えて気遣ってくれるようになった。


そしてちょっと前を通るだけでも大丈夫?なんて声をかけてくれるようになった。

頑張ってリハビリのプリントをやってると話しかけてくれる様になった。



全然覚えられないけどでも色んな人が話しかけてくれる事で明るい日になってきた。


もちろんこの歳でオムツ交換や陰部洗浄、体の清拭。シャワーにも入れない。辛い事は続いていったけれど少し余裕が出てくるようにはなった。



看護師さん、リハビリの先生、そして主治医にも感謝した。



そして前向性健忘はこの治療を機にスカッと霧が晴れた。


『一筋の光』気が付けば入院して1ヶ月が過ぎていた。毎日のように起きる痙攣、意識障害、酸素低下。心因性かもしれないけど精神科の先生からは心身症になる要素が見つからない。との…リンクameblo.jp

『9月6日』脳炎治療がうまくはまり、痙攣、意識障害を起こさなくなった。後私に残された問題点は軽度の嗄声、嚥下障害、高次脳機能障害、右下垂足、廃用症候群、薬剤性肝障害、貧血…リンクameblo.jp



薬剤性の前向性健忘編はこれにて完結です(^^)次は何にしようかなぁ〜