とあるブログで、「軽いひきこもり」が増えている、という記事を拝見しました。
どういうことかと言うと、通院買い物は何とか出来て、学校や会社は行かず、家族以外とあまり交流をもたない人のこと。
そういう人たちをどう助けていけばいいのだろう、という主旨の記事だったのだけど。
現状、自分は、まさしくその「軽いひきこもり」なわけですが。
何年も足掻いたあげく、やっと今軽く引きこもることで安定への足掛かりを得た気持ちでいたので、少し気持ちが迷子になりかけています。
うつで失業して以来、ハローワークやリワークプログラム、そして就労継続支援B型と地域活動支援センター、切れ目なく通い続けて来たけれど、この3月からパタリと行くのをやめました。
また連絡します、とは言ってあるけれど。
就労継続支援の人は、1週間に1回はどこかに通ったほうがいいと言うけれど、主治医の先生はお散歩できてればそれで良いと。
実際、1回の通院以外なんの予定も無かった4月、調子が良くなるコツが見えてきた気がしていました。
そんな現状で、今不安に思うのは、就労継続支援の人から連絡があることだったりします。
今の平穏を突付かれることが心配なのです。
編み物を通じてネット上で若干の交流や売上を得つつ、技術を向上させていく、それも社会参加の1つの形にならないのだろうか。
リアルの人間関係でことごとく失敗を積み重ねてきた人間からすると、どこか特定の場に長く通うのは、ものすごく怖いのです。長時間人と接することになるカウンセリングを始めてから、通院ですら少し不安が出てきたくらい、難しいのです。
ひきこもりを「助ける」という視点が内包しているのは、安全地帯であるひきこもり状態を(最終的に)壊させるということだと感じます。
そもそも、本人には、ひきこもっている状態が悪いものだという認識があります。
それを助けようとして、どこかに通わせようと働きかけるなら、自分が悪いことをしている、自分はやるべきことが出来ない、自分は悪人だ、という思いになります。
そう考えると、安全地帯にいながら存在意義を持つ、というのが一番なのかなぁと感じます。
主治医があっさりと、週一回通うとかしなくていい行かなくていい、と言ってくれたことが私の助けになっているように、そういった支えがあったら助かるのかもしれません。いわば、ひきこもりを肯定するような。
と言っても、私自身、ひきこもりを肯定するほど達観しているわけではありません。
自立できていない引け目を強く感じます。
それで、ひとつのブログ記事で気持ちが揺れるわけです。
ただ、ひとつ思ったのは。
人それぞれみんな違うから、ただ一つの正解を求めることは出来ませんが、正解の一つの形としての「軽いひきこもり」も受容されてもいいのかなぁ。というか、受容されてほしいなぁ。ということ。
自分自身全く受容できていないけれど…。
必ずしも助けなきゃいけない存在じゃ無いような気がするのでした。
なんかまとまりのない長文になってしまいました。