おいしい手づくり料理だった。
34年ぶりに食べる母の味は、こんな味だったのか。
当時5歳の私には、とうてい思い出せない。
思い出すのは、キッチンに立って、するめを焼く母の後ろ姿と、
焼きあがるのを今か今かと待ちわびる自分。
離婚してから、水商売、小料理屋と経験を重ねたらしい母は、
料理の腕を上げたらしい。
料理が大好きだといい、いろんなお料理の作り方を口頭で教えてくれた。
父親違いの弟である男性が、家に入ってきて、一緒に夕飯を食べた。
背の高く、すーっとしたよい形の鼻、眉は濃く、額とともに少し突き出ていて、
目が奥まっていて、眼光は鋭い。 外人のような姿だった。
明らかに、堅気ではない様子が見てすぐにわかった。
幸い、私はどんな人でも、とりあえずは受け容れる方針を持っている。
こうした方々にも、割と普通に接することができる。
いや、一応弟という存在だからできることではあるが。
怖くはない
と言えば嘘になる。
怖かった
こういう時、彼の怒りに触れぬように びくびくして過ごすのは
逆に事態を悪くすることも知っていた。
だから、普通の人と接するように話しかけ、冗談を言って笑い、
彼のよいところを見ようと、私の眼光の方が鋭かったかもしれない。
実際、彼はとてもナイーブで、純粋で、素直な男の子だった。
不器用だし、環境もいいとはいえない家庭で、心閉ざし、
きっと多く傷ついてきたであろうことは、すぐに分かった。
そんな自分を受け容れてくれるところは、右翼団体やどこかの組しか
なかったのかもしれない。
同情はしていない。
ただ、こういう社会でしか生きていけない人間が
たくさん存在することに、憂いを感じるしかなかった。
三人で、こたつを囲んで、
「おいしいね。」と言って食べた。
この時、私は姉なんだと自覚した。
まるで小説を書いているような錯覚を覚える。
いや、私の経験したことが小説だったのではないか?と勘違いしてしまうほど、
他人事のようにも思えてくる。
時が過ぎ、いろんなことを冷静に考えられるようになった今、
このブログという媒体に、これ以上掲載することに
戸惑いを隠せない。
書き始めた以上、書かねばなるまい、という責任もある。
・・・と様々に考えをめぐらすと、
禅師のおっしゃった「考えすぎるな」という言葉が通り過ぎる。
私は、とりあえず記しておきたい。
その欲求があるのなら、それに従うのみである。
読みたくない方は、これ以上は読み進めないようにお願いしたい。
わがままですみません。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「子どもの頃の、君の写真を見たことがあるんだよ。
面影があるね。」
私は、その弟に言った。 不器用そうな弟は、恥ずかしそうに笑い、
「え、そうですか。」と言った。
君の過去に思いを馳せて、しばらくしてやめた。
君も、苦しんできたね。
母は相変わらず、弾丸のごとくに話していた。
私の辿ってきた道のりに思いを転じることはなく、ただただ
まるで今までの自分の人生を回顧するがごとくに、
母の半生は続いた。 反省はどこにも見られないのだが。
ふと気がつくと、電話台の下に新聞紙に包まられた包丁が見えた。
柄が大きかったので、魚を捌くためのものか?
なぜ、厨房が隣りにあるのに、ここにあるのか? 不安がよぎる。
そして、一種の諦めも同居した。
人は死ぬときは死ぬもんだ。
命の時間は、私ではなく神様に委ねた。
かといって、怖くなかったわけじゃない。 怖くて怖くて、
夜寝床についても、しばらく眠れなかった。
綺麗に片付けられた部屋。 トイレ。 厨房。
そして、綺麗に掃除されたお風呂に入れさせていただいた。
母はとても綺麗好きだった。 知らなかった。
二階の部屋には暖房はなく、とても寒かった。
私の布団の中に、一個しかないであろう湯たんぽを入れてくれた。
ありがとう。
母は、寒くなかったんだろうか? 昨年癌の手術をした傷口が、
寒さで痛んではいないだろうか?
そんなことを考えながら、さっきの包丁を思い出しながら、
なかなか寝付けない自分がいた。
財布は、手にもっていたバッグから、スーツケースの奥底に隠した。
なぜか不安がよぎっていたから。 怖い夜だった。
