ボランティア?優しさ?いいえ、エゴです。 | いつか泡沫に帰す

いつか泡沫に帰す

想いを綴っていつの日か生きづらさを無くせるように。

ひねくれものの私が顔を出してます。

先日、近親者が亡くなりました。
こういう時の悲しい性というか。
非常事態が起きると、
「自分がなんとかしなきゃ!」となります。
そして、感情を押し殺して
色々なことを引き受けてしまいます。

今回も葬儀全般の窓口、手続き、諸々…。
周りが悲しみに浸る中、
私だけがバタバタと準備に追われ、
伝えたはずのことを聞いてないと責められ、
葬儀会社が気に入らなければ、
「あなたが選んだ」とまた責められる。
そんな時、喪主は知らん顔。
(ちなみに私に決定権はないので、当然喪主に諸々の判断を仰いでます)

そしてどんどんエスカレートしてる(ように感じる)要求。
雑になっていく(ように感じる)私の扱い。

自分から良かれと思って動き始めたのに、
「小間使いでもボランティアでもねぇ!
やってもらって当たり前と思うなよ!」
という気持ちが膨らみ…
ふてくされた気持ちであらゆる儀式に出席する。
日常のペースは乱れ、体調も崩す。

父の時もこうだったなぁ。
葬儀費用まで全額負担したなぁ。
兄も母もなにもしなかった。
それどころかあれもこれもやってやって、
になっていった。

じゃあ何故引き受けてしまうのか。

私が何もやらないことで、私の大切な人が、
大変な想いをするのが辛いのです。
私がやらなければ、多分その人がやるわけで。
それを側でボーッと見てるのは、
罪悪感にまみれるわけで。

優しさでもボランティアでもなく、
私の気が済まないから、
私が罪悪感にまみれたくないから、
大切な人のためにやってる、私のエゴなのです。

だから、大切な人以外の人たちに、
あれもやって、これもやってと言われると、
「はぁ?」と思ってしまう。
「あんたたちは所詮他人でしょ?あんたたちが私に何かしてくれた?何もしてくれてないし、これからもそうでしょう?なぜなんの臆面もなく頼めるわけ?」って。

純粋に優しければ、
こんな気持ちにはならないんでしょう。
私もそれをよく自覚して動かないと。

私がやらなければ誰かがやる。
私がやるからみんな押し付けてくる。
働きアリと一緒ですね。
全体の2割はサボってる。
でもそこから働いてるアリを2割減らすと、
サボってたアリも働き出すそうです。
そして全体数が減ったうちまた2割がサボる。

私は「みんな」のためにやってるんじゃない。
私は「大切な人」のためにやってるんだ。
だから、目の前の関係ない人より、
大切な人のことをちゃんと見なきゃ。

これで私が調子を崩してたら、
私の大切な人はさぞ心配するでしょう。
それだとなんのために引き受けたかわからないよ。

目的を見失うな、私。
表面的なことに惑わされるな。
他の人には演じきればいい、優しい人を。
それかやれないことは笑顔で断ろう。
無理をして被害妄想に飲み込まれるくらいなら、
断って嫌われた方がよっぽどいい。