皆さま。こんにちわ。
皆さまお一人お一人にも尊い人生の歴史があるかと思います。
こう言った人生経験の中に今現在の私達の思考があるのだと思います。
この日本の中で、日本を守る為のお考えの中に、それぞれの人生の経験が積み重なって来ているのだと思います。
私も、皆さまの歴史には劣るとは思いますが、それなりの歴史があります。
その歴史を、簡単にお話しさせて頂けたらと思います。
皆さまの歴史も、少々重なる部分はあるかと思います。宜しかったら、ご自身の歴史やお考えを振り返りながら読んで頂けたらと思います。
① 私が生まれる前
私の父は3人兄弟の次男として東京のスカイツリーの真下と言える業平1丁目辺りに住んでいました。私も結婚するまでは、この業平に本籍がありました。母は親元の現在の◯◯市に長女として住んでおりました。父と母は子供の頃、関東大震災を経験しております。その後、父と母が結婚し現在の松戸市の方で結婚生活を始めたと聞いています。その後太平洋戦争が始まり、彼等は長野と新潟の県境にある栄村と言うところで、現在の貨幣価値で、億単位の資金を母親の父から貰い、製紙工場を作り企業しております。何分戦中戦後の事ですから、銀行に預けておいた資金はその後銀行封鎖に遭い、資金が出せず、その後、貨幣価値が暴落しほぼ財産を無くして、現在の◯◯市と言うところに、一文無しで戻って来たと言う事です。ですので、生活はどん底と言う状態だった様です。なんとか母親の父に助けられ生活していたようです。余談ですが、父がまたそこで「人でなし」と言われても仕方の無いヘマをやらかし、今度こそ、追放状態になっても良さそうだったのですが、それでも母と子供達が不幸にならない様にと言う事で仕方なく、その後も援助されていた様です。
この祖父は江戸時代の生まれでした。丁度、私が生まれたあたりに亡くなっています。江戸時代生まれの豪快な日本男児は家族を思う気持ちは半端ありませんでしたね。江戸時代って素晴らしいと思います。日本全体が江戸時代の様な、そんな情の深い日本男児の住む国になって欲しいですね。
② 幼少期
戦後12年目位に生まれた時、家の周りは、殆ど農道の様な細い舗装のされてない道ばかりで、◯◯駅まで、街灯もあるか無いかの暗い道が続いていたのを記憶しております。当時は、市民で無く村人と言う感じでしょうか。聞く話でも◯◯駅から帰る途中、真っ暗で、いくら歩いても家にたどり着けず、一晩中歩き続けて家に着いた。狐に化かされたのか等、そんな話をしていた時代でした。その頃から、白黒ですがTVが普及しはじまり、TV番組を見ています。日本の番組では、とんま天狗、海底人8823、ナショナル・キッド、NHKのケぺル先生こんにちわとか、アメリカの番組ではローハイド、ララミー牧場等です。その他にもどんどん番組が始まっていたと思います。
③ 小学生の頃
当時、小学校1年生の頃でしょうか。校長先生が全校集会で校庭に生徒を集め、週一で訓示の様な事をしておりましたが、その時「日本は良い国なのですよ。貴方達は日本と言う恵まれた国に生まれたのです。東南アジアの国々は大変です」の様な事を聞き、自分を振り返って見ても、「これが良い環境なのかな、取り敢えず、これでもいい環境なんだ」と漠然と思っていたのを記憶しておりますが、この言葉が以外に小学校・中学校とその後の生きる上での支えになっていた様な気がします。この頃、良く先生方がストライキをして、先生がいないので授業が自習などと言う事が良くありました。
④ 中学生の頃
この頃は、政治の話をする先生は、ほぼ、いなくなりましたね。たまに先生のストライキで授業が自習などと言う事がありました。
⑤ 高校生の頃
1972年田中角栄首相と毛沢東主席による日中平和友好条約が話題になっている頃でしょうか。教科書に参考程度に「慰安婦」「南京大虐殺」「尖閣諸島の帰属問題」と言う言葉が急に出て来た事が不思議でした。これら「慰安婦」「南京大虐殺」「尖閣諸島の帰属」の問題を解説した先生は一人もおりません。良く考えると歴史の授業は江戸時代で終わりです。近現代史は全くしてないので解説等ある分けないですね。今考えると、文部省と全国の先生達で対立が起きていたのだと思います。そんな頃、オイルショックが来ます。石油危機で1リッター50円程度だったガソリンが100円になると大騒ぎになり、日本中が品不足でパニックになっておりました。今思えば、やはり、日中平和友好条約がアメリカの逆鱗に触れ、アメリカの経済制裁が始まったのだろうと思います。「慰安婦」「南京大虐殺」「尖閣諸島の帰属」の問題もそんな日本に制裁を科す為に作られた嘘の歴史なのでしょう。主犯格はアメリカです。そんな時、ある先生が中曽根康弘が首相になる。期待出来る人だと言っていたのを記憶しております。
⑥ 学生の頃
丁度、ロッキード事件が起こり、田中角栄が首相から引きずり降ろされ、田中角栄が悪い人間だとマスコミが騒ぎ出したのを見ています。私の直観としては、「マスコミの攻撃は酷すぎる。田中角栄は可哀そうだなと思っておりました。その後、中曽根康弘が首相となり「ロンヤスの蜜月」が始まり、中曽根はアメリカの属国宣言とでも言える様な外交を始めます。私もこの頃は何とも、情けない程リベラル化した頭しかありませんでした。元首相である鳩山由紀夫の様に、戦前戦中を生きた人々で団体を作り、アジア諸国、特に中国や韓国に出かけ「お詫び行脚」をすれば良いのに等思っている状態でした。高度成長で社会はどんどん発展して行った頃です。特に政治に関心を持つ事はありませんでした。
⑦ 1980年代
会社の経営を始めた頃からでしょうか。経済の波をひしひしと感じる様になりました。
その頃、Apple IIと言うコンユーターが売られ始まります。その頃から仕事にコンピュータを使いたいなと思い始め、私もこの当時100万円でこのコンピュータを買いました。DOSコンピュータと言われるものです。エクセルの走りの様なソフト「ビジカルク」がありそれが使いたかったのですね。
当時説明書で「 DOS 3.x 」と言う機能にアップルベイシックと言うプログラムを書いて追加拡張して行く、機能がありました。マイクロソフトでも、「MSーDOS」と言う拡張機能プログラムが使われていました。
本来「ドス」と言うのは英語で「蹴飛ばす」と言う意味があり、足で蹴飛ばさないと動かないと言うくらい、今、私達が使っているコンピュータとは比べものになりません。また、日本語の取説も英語直訳ですので、日本語になってないのですね。現在の機械翻訳の方がまだ理解出来るレベルです。そんなこんなで大変苦労した記憶があります。
そんな時、日航123便の事故が起きた分けです。その日航123便には松下電器のB-トロンと言うPC用のOS開発者と関係者17名が乗っていました。
B-トロンはアップルⅡの「DOS 3.x」やマイクロソフトの「MSーDOS」とはくらべものにならない程、素人でも簡単に動かせる優秀なOSとして期待されていました。
日本では、1964年の東京オリンピックで既に、「トイレ」や「電話ボックス」「緊急避難出口」等を表すのマークとして「 ピクトグラム」が発達しています。絵文字は日本のお家芸です。
この「ピクトグラム」の様なアイコンに対し「マウスのカーソルを充ててクリック」させてソフトを起動させる。これがBートロンの正体だったのではないかと思っています。このアイディア―は日本人にしか出来ない発想です。
それまでのコンピュータは、秒速で動詞、目的語、助詞、形容詞、名詞の文字をひたすら英文で入力して「Enter」を押す。脇で見ていてもブラインドタッチで秒速で文字を入力して行く姿は本当にカッコイ~♡です。
一言で言うなら「しびれる~♡。惚れてまうわ~♡」です。
良く考えてみれば、欧米はタイプライター文化です。その域から抜ける事は難しい文化なのです。
こんなカッコよすぎるくらい素晴らしいテクニックで普段仕事をしていて満足している技術者にとって、この「 ピクトグラム」の様な「アイコン」を「矢印」でクリックする等、日本的な考え方等、あまりにもダサすぎて、考えも及ばない程の欧米はタイプライター文化なのです。
丁度、車で言うなら、私達がマニュアルからオートマに変わった時の心理と一緒だと思います。
同乗者を魅了させた、あの「ダブルクラッチ」が使えなくなってしまったのです。シフトチェンジの度に「ビューン」「カー」「カー」と変わって行く痺れるエンジン音も無くなってしまったのです。カッコよくシフトチェンジしていた左手も手持無沙汰の様にダラーンとハンドルを握っているだけなってしまったのです。結局カッコいいドライブテクニックの見せ場が無くなってしまう分けです。
それが日航123便の後、突如として欧米の技術者が考えもつかない「 ピクトグラム」と「マウスの矢印」の組み合わせで起動するコンピュータとして、マッキントッシュのOSやウインドウズ95は、今までの「DOSコンピュータ」とは全く別物の様に突然出て来たと言う感じです。
それも、ほぼ同時で発売されるなんて、私はそこがおかしいなと考えています。
当時の何も知らない私でも、急激過ぎて驚いたくらいです。
どこの会社の発明でも無く、どこの会社の特許でも無く、同じシステムがほぼ同時発売でした。
私は、御巣鷹山で盗まれたB-トロンがマッキントッシュとウインドウズ95に使われたのだと推測しています。
⑧ 1990年代
日本サッカー協会が出来、日本サッカーが本格的に世界デビューする頃です。私もアップルⅡとはお別れして、ウインドウズ95を使い始めました。この頃から急速にSNSが発達して行きました。私はこの頃からヤフー掲示板(今はありません)等を積極的に活用する様になりました。そこで「韓国と日本の広場」と言うところで掲示板を覗く事になります。そこでは、在日朝鮮人・韓国人グループと日本人グループが言い争っている様な状況でした。そこで、私が感じた事は「お互いに言い合いになっても良いんだ。内面を隠さず思った事を言って良いんだ」と言う事を学びました。最初は炎上と言う形になりますが、段々、お互いを理解しあい、最終的には終息し、お互いの意見を訊く様に収まって行く様子がありました。
また、在日朝鮮人・韓国人からの書き込みで、「日本の政官財のトップはどんどん在日に乗っ取られてい行く」と言う事を教えてもらいました。あれから30年近くになります。岸田あたりがトップとなり実現したのでしょうか。
彼等は同胞の動きに対して、日本人以上に鋭い情報を持っていました。
それだけで無く、私が衝撃を受けたのは金満哲と言う韓国の評論家が同胞に対して、以下の様に厳しく忠告している書き込みも読ませてもらっています。
https://finance.yahoo.co.jp/cm/message/1004676/a5ua58a5fa5la5sa58a5ga5s/1/136595
その様な事から、韓国・朝鮮在日でも真実の歴史を理解している人はいるのだと言う事を知りました。
また、日本統治前、南大門の前で土人の様な生活を送る韓国人の写真や統治後の都会化された南大門の前に路面電車が走るソウルの写真、その他の情報を見ているうちに、日本の学校教育やマスコミの情報の殆どに嘘がある事を知りました。また、南京大虐殺も何の根拠も無い事も分かりました。
⑨ 2000年代
兎に角、日本で一般的に語られる情報に間違いがあると言う事を知り、ネットを頼りに深く勉強して行きました。
⑩ 2010年代
日本政府はアメリカに牛耳られている。日米同盟は日本を再び独立させない為か。日米合同委員会と言う密約を日本に押し付ける機関も存在するのか。そんな事をいつまでも許す日本政府おかしくない?官僚おかしくない?政治家おかしくない?マスコミおかしくない?学校教育おかしくない?日本の空は米軍のもの、それっておかしくない?全てに於いて日本は間違った方向に行ってしまっている。このままでは、日本人の命が危ない。今まで分かって来た事を少しでも発信して行かなければいけないと思い、ブログをはじめました。
⑪ 2020年代
とうとう、狂人ビル・ゲーツによる人口削減がワクチンによって引き起こされました。今の日本ではとても抵抗さえ出来ない。このままでは、日本は終わってしまう。そう考えて、これからは行動が伴わなくてはと思い現在に至っております。