アメリカ旅行(8)経済力、幸せ、比較 | ライオンシティからリバーシティへ

アメリカ旅行(8)経済力、幸せ、比較

訪問した国の印象を変えるのは、訪れた国の人々の暮らし向き、豊かさ加減だ。

それは絶対的なものではなく、自分自身の懐具合や円の為替レートによって大きく変わる。

東南アジア諸国の旅行が日本人に楽しく、心地好く感じられるのは、治安も良く、圧倒的貧困や不潔さがないのに加え、人件費が安いせいでさまざまなことが圧倒的に「お財布に優しい」からだ。

もし、タイのマッサージ料金が日本のマッサージ料金と同じで、バリのホテル料金が沖縄並みなら、これらの国の魅力はずいぶん小さくなるだろう。

そういう点では、
去年の1ドル=80円のアメリカ旅行は物を安く感じたが、今回の1ドル=100円の旅行では、日米の物価は「ちょうど同じ」に感じられた。

だいたいランチが1人1000円、ディナーは気軽な店でお酒も飲んで3000円。要するに、日本とだいたい同じ値段で、何か、「ものすごく安い!」と感じたモノやサービスはなく、もちろん、アジア旅行と比べるとお財布には厳しかった。

人件費が高いせいか、文化要因のせいか、マッサージ店、美容院など、家族でやっている労働集約的なビジネスはアメリカには少ないように感じられた。一方、サンフランシスコのサウサリートなど、富裕層の住む住宅地やスタンフォード大学の豊かさぶりには圧倒された。

老後を東南アジアで生活するというのは現在の為替レートのままなら実現可能性があるが、残念ながらアメリカで生活するのは難しそうだと感じた。

アメリカは開拓フロンティアや一獲千金の時代がとうの昔に終わっている。生産や流通は極限まで効率化され、企業は集約化されている。そうした社会では、高学歴でないと所得の良い仕事にありつけない。そして良い仕事には高い教育が必要であり、アメリカの教育費はものすごく高い。だから、格差が広がっている。

アメリカには、豊かさから落ちこぼれ、生活保護や補償金によって生きる人々、例えば相対的に貧しいインディアン居住区に住む人々や都市のホームレスがいた。

絶対的に貧しい国であるバングラデシュのスラムに住む人々と、こうしたアメリカでメインストリームの社会から相対的に落ちこぼれた人々。どちらの方がより「可哀相」なのだろうか? 

たとえばアメリカン・インディアンのナバホ族は確かに貧しい。でも、その歴史の最も過酷だった時代は過ぎ、今は、一定の自治権を持って、貧しいけれど豊かな自然の中で、ゆったりした生活リズムの中で伝統的な生活や家族の紐帯を維持して暮らしている。

こうした人々と、都会で孤独の中でお金をもたらす雇用を維持するために過酷な労働に耐えてストレスに晒されている人と、どちらが幸せなんだろうか?

あるいは、国を失って中国の圧政下に生きているチベット人と、アメリカのインディアン、どちらが不幸なんだろうか?

そんなことばかり私がツラツラ考えてしまうのは、あるいは、「世界には可哀相な人たちが沢山います。私たちは豊かな日本という国に生まれたことを感謝しましょう」と小さい頃から教えられて育って、いつも何かと何かを比較しているからだと思う。

でも、「誰がどれだけ幸せで、誰が可哀相か」を自分の尺度で比較しようとする精神は、実に傲慢で不毛だ。

幸不幸というのは、経済力だけで決まるものでもないし、他人との比較で決まるものではない。

そしてそれは多様な価値観に基づく主観的なものだ。

私は、お金がないことに不満かもしれない。お金持ちになりたいと思うかもしれない。お金持ちになればもっと自分は幸せになれると考えるかもしれない。

でも自分より恵まれた人から自分の生活スタイルを見下ろされて、「あなたは可哀相だ」「不幸だ」などと言われたら、「何をもって私を可哀相だと思うのですか?あなたは私の生活の本当の実態、何を楽しいと思って何を苦しいと思っているかを知らないでしょう?余計なお世話」と言うだろう。

また私の生活をチラっと見た外国人が、「この人より私は相対的に幸福だ」と感じたとしても、その人の感覚は、私の人生とは何の関係もない。

バングラデシュのスラムの人も、シンガポールで働くメイドやワーカーも、アメリカの居留区に住むインディアンも、国を失ったチベット人も、同じだろう。

そういう人たちを見て、知って可哀相だと思ったり、そういう人たちを見て自分の幸せをかみ締めることには何の意味はないどころか、有害だ。

他人を可哀相と思う気持ちは、他人との間に壁を作る。

それにしても、自分以外の人間の圧倒的な豊かさや貧しさを見てなお、壁を作らず、圧倒されず、比較しない心を保つのは実に難しい。