奈良旅行(4)--長谷寺 | ライオンシティからリバーシティへ

奈良旅行(4)--長谷寺


京都や奈良のお寺は、中に入るのに拝観料を払う。

大半の観光客は、<文化遺産=国宝や重文の秘仏や建造物>を鑑賞するために古都を訪れているから、拝観料を払って寺に入るのは、入場料を払って博物館やテーマパークに入るのと同じ感覚だ。

また古寺の方も、とうの昔に宗教施設としての役割を終え、実質的に博物館となっているところが多い。

東大寺興福寺 などのメジャーな寺はもとより、秋篠寺 なども、須弥壇に仏像が3体とか5体、説明キャプションと一緒にずらっ、と横並びに並んでいて、ひたすら一体一体の仏像の詳細を観察するより他にすることはない。

これが山間の初瀬の長谷寺 まで行くと、少し様子が変わってくる。

晩春には牡丹が咲き乱れ、有名な十一面観音を初めとする秘仏や五重塔などを擁する一大名所、観光地であることは事実だが、同時に、ライブな「宗教施設」「祈りの場」として機能しているのである。

まず、実際に境内に相当数の僧侶が住み、修行をしていること。

そして、全国の「講」の人たちが、総本山である長谷寺参拝に来て、泊まっていること。

9時~5時の「観光タイム」をはずした早朝と夕方は、無料で入山でき、したがって、地元の人々が古物鑑賞のためでなく、信仰のために観音様を拝みに来ること。

室町時代に造立された本尊十一面観音菩薩像 は、重要文化財であり、実に美しい仏像である。

でも、同じ仏像が博物館に並んでいたら、まったくインパクトが違うだろう。

ここでは、長い参道を登ってやっと本堂にたどり着いた参拝客の前に、金色の観音様がぼおっと突然、浮かび上がる、実に神秘的なディスプレーがなされている。

ひたすら一点豪華主義であり、この観音像以外には目がいかない感じである。

本堂の縦長の窓から、上から慈愛を持って衆生を見下ろす、その金剛の孤高のそのお姿は、実にリアル。神的なものが本当にそこにおられる、という感じを受ける。

芸術鑑賞ではなく、信仰のための観音様がそこにいた。

そして、早朝に本堂を訪れることで、観音様を祈り倒す人たちを私は、沢山、目撃した。

まだ日が昇るか昇らないかの時間に、小さな幼子を連れて何度も行ったりきたりして観音様の前で頭を下げる老人。

座り込んで数珠を持って真言を唱える初老の婦人。

正直、観光地のお寺で、ここまで濃い「信仰心」に触れるとは思っていなかった。

古い時代、お寺や美しい仏像が作られた原動力は、「信仰心」のエネルギー。

そのエネルギーの大半は、今の日本にはもう、失われたと思っていた。でも、死に絶えたわけではない。

その生きた証拠が、こうして長谷寺で祈る人々。

私も、将来、祈りたいときには長谷寺に来たいと思った。

仏像を見るためではなく、観音様にお祈りするために。。。。

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