昨日の心療内科での会話。

先生「『7月に死ぬ』ね…死ぬってどんな感じだと思う?」

私「多分…怖いと思います」

先生「きっとそうだよね」

 

私は、去年度末頃に「来年度の7月に自殺する」と決めました。決めるに至るには、高校入学時に「次しんどい思いをすることがあったら割り切って死のう」と覚悟をしたことが影響しました。高校受験時(中3時)、現在ほどではないですが精神的にしんどい思いをしたことがありました(おそらく受験鬱でした)。それがきっかけとなり、高校入学時の覚悟につながりました。

 

そして去年度の9月末頃以降、高校入学時の覚悟に思い描いた「しんどい」の何十倍もしんどい毎日が始まりました。それはもう「割り切って死のう」に十分該当するほどです。

 

ではなぜ9月末に死なず、7月に引き延ばしたのか。

 

9月末頃から11月末頃までは、まだ「しんどい日々が終わるかもしれない」と希望を持てていたのです。それに、希死念慮もそこまでなく「もしかしたら死にたいかも…?」とやんわりとした感覚を持っていただけでした。希望を持って希死念慮は持っていない。さすがににそんな良好な状態では死ねませんでした。

 

問題は12月以降。11月末からさらに悪化をし続けた精神は限界を迎え、12月半ばにスクールカウンセリングにかかり、1月半ばにはさらに心療内科にかかることに。2月には定期考査、3月初めには学校行事。12月からの怒涛の変化に疲れている一方多忙で休めず、いつ死ぬかなんて考えていられない日々でした。ですが、そんな中でも徐々に「来年度のどこかでは絶対に死にたい」と思うようになり、なんとなく7月という目星を付け先生方に相談するようになっていました。

 

多忙な日々が終わった3月半ばから4月初めの春休み。ゆっくりと自分の今後を考え、7月に死ぬということが自分の中で確実になりました。

 

そして現在。もう7月が目の前です。自殺を実行する目安として、月が変わった初日である7/1、七夕の7/7、兄弟の誕生日の7/23があります。7/1に失敗したら7/7、7/7に失敗したら7/23と続けていくつもりでした。

 

ですが、まさに今この予定に迷いが生じています。最近「死にたい」という感覚が「死なないといけない」という感覚に変化していることが原因です。「死なないといけない」は必要性に迫られている状態であって、あくまで自分の意思ではありません。自分の意思ではないのに死ぬのはきっと苦痛になります。しんどいところから逃げ出すのにさらに苦痛を味わうなんて嫌です。

 

ですが、「死なないといけない」という必要性に迫られた状態はかなり優勢です。7月に死ななければまた将来似たようにしんどい思いをするかもしれない思うと「死なないといけない」に押されてしまいます。

 

そして、この「死なないといけない」を優勢にする最大の決め手は、頼れる相手が激減したことです。今までは高校の先生方、病院、カウンセリング、友人を含めて頼れる相手が10人以上いたのですが、先生方の離任や自身の復帰を通して現在は2人になりました。頼れる相手が少ない中で過ごすのが何よりも辛いことなのは、これまでの経験上十分理解しています。理解した上で生き抜くのはなかなかの試練です。

 

しかし「死なないといけない」の優勢に関わらず、最大の問題は「死が怖い」と感じることです。昨日のかかりつけ医との会話であらためて感じたのですが、やはり死は怖いです。きっと、自殺を実行に移すために行動している段階や、あるいは実行に移し終わり意識を手放しかけた段階など、「自殺」と呼ばれる一連の流れのどこかでは「死が怖い」と感じるのだと思います。「死が怖い」と感じるのは、人間に備わった生きるための本能。本能には抗えません。

 

 

ここまで書き出しても考えは一切まとまりません。自分の命に関わることなのに自分で答えを出せないなんて…と思うと絶望します。不謹慎ですが、いっそのこと事故に巻き込まれて死んでしまえば楽になれるのかな、なんて思う日々です。