毎年、3月11日に訪問しているブログがあります。
震災当時とても話題になった防災無線で最後まで避難を呼びかけていた若い女性の方のブログです。
こちらです
震災から1年後の12年前には、「あなたを忘れない」「ありがとう」といっぱいあったコメント。
年々減って、2020年が最後。
今年もないかな。
という私はコメントしたことはないのです・・・
毎年、ブログがまだあることに安堵するのと同時に他愛もない日常を綴った最後のブログにいつも悲しくなります。
さっきまであった日常が突然消えてしまうことに恐怖を感じます。
きっと、ネットの深い深い闇の中には、震災で主を失った、誰にも見つけてもらえない沢山のブログが色々な想いを刻んだまま、さまよっているのだろうと思います。
私にとって、3月11日は普通の生活を送れることに感謝し、もっと今を大切にしないといけないな、と反省する日です。
毎年同じ気持ちになります。
(以下以前書いたこととほぼ同じですが、結局いつも同じ想いになってしまうので💦)
そして、大切な人を突然失う悲しみ。
13年前は知りませんでした。
想像しか出来なかった。
8年前の夏、母をなくしました。
突然でした。
警察で私ひとりで遺体写真を見せられて身元確認をしました。
前の晩も一緒にご飯を食べて、当日も一緒に出かける予定でした。
車で実家に迎えに行ったのにいなくて、探して探して、再会できた時はグレーの遺体袋に入っていました。
検死が終わり、一晩会館の安置室で母と一緒にいました。夏でしたがクーラーが効いていて恐ろしく寒かったです。
寝たら凍死する?と思ったほどで、時々暖まるためにベランダに出ました。5階のベランダからは地面がとても遠く見えて、飛び降りてみようか・・とふと思ったのを覚えています。
母の体には損傷があったので、グレーの遺体袋に入ったままでした。怖くて遺体袋のジッパーが下ろせませんでした。本当の顔を見てあげなかったことに今でも後悔しています。胸が痛くなります。
次の日、遺体の修復(かなり費用はかかりますが、そういうオプション?があるのです)をしてもらうために、袋のまま送り出しました。
娘や姪っ子たちに会わせるのに、怖い思いをさせたくなかったから、綺麗にしてあげたかったから。
帰ってきたら、「違う人だった〜間違いだった〜母は生きてた!」なんてことにならないかなと願いました。そんなことにはなりませんでした。帰ってきたのは紛れもなく母でした。
でも綺麗になって帰ってきた母は違う人のような気がして、不思議な感覚でした。
多分、誰も気付かなかったと思いますが、手の親指に爪がなかった。それに気づいて、手さえ、ちゃんと握ってあげれなかった。
今だに納得も解決も出来ていなくて、真相も分からなくて・・・ずっと苦しいです。
後悔ばかり。
時間が解決してくれるなんて嘘ですね。
時間が経つにつれて まわりは時が進んでいき、変われない自分はなんだか置いてけぼりになって 誰にも、家族にすら話せなくなって 、人の前では泣けなくなって、何か重いものが自分の内側にさらに積もって固まっていく感じ。
でも震災で1人どころか、沢山の大切な人を失ったみなさんの悲しみには到底及ばないとは思います。
心の復興は難しくても、せめて生活の復興が進みますように。
でも、今日のニュースで、13年経っても進まない復興のことを取り上げていました。
そして、今年の元旦の震災。試練って何のためにあるのでしょう・・
「のんちゃん」に出会ったのは、母を失って1週間後でした。
母の名前、"のりこ"からとって"のん"と名付けました。
(お迎え当時の のん)
ちなみに、その後のんのお友達にとお迎えしたきんは、亡き父の名前「きよし」からとりました〜
子供達に「その名付け、重すぎるわ〜」と呆れられました^^;
おハゲだけど、ずっとそばにいてくれると思っていました。
お父さん、お母さん会いたいです。
親孝行出来なくてゴメンね。
のんちゃん、会いたいよ。
治してあげられなくてゴメンね。
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Yahoo!とLINEで3.11と検索すると10円寄付されるそうな。自己負担ではなく、LINEヤフーが行うそうです。
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