DX東寺 | cobanobuのブログ

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昭和44年発行のヌードインテリジェンス通巻17号に東寺劇場のルポルタージュ記事が載っている。その当時のオーナーは浜本興行である。ルポ当時池田市の呉服座が閉鎖になった話題が出た。呉服座は明治から続く関西一の老舗で、新派、新劇を問わず、この劇場に出演しなければ道頓堀の角座や中座の檜舞台は踏めなかった別格の小屋だった。この話を受けて浜本興行の社長は次のようにいっている。

 

「呉服座みたいに古いことおへんがうち(東寺劇場)も相当古うおますねん、昔からの踊り子さんなら、大抵の人はうちにのっとりまっしゃろ、コメディアンの人たちかて、そうですがな、これもみんなテレビのせいですねん、芝居がテレビに喰われて、座が解散し、座のおなごはみんなストリップになってしまいよった。おとこはよろしおすがな、テレビのおかげで、浮びあがりましたなあ、イロモンの連中は何んぼでも売れてます。

「そやけど、今更ほかの商売できまへんやろ、興行やってたら

「商品仕入れて、なんぼかの口銭かけて小売りするようなことは・・・

「そうでんなあ、興行でいっぺんええ目したもんは、興行の味が忘れられしまへん、ワテら、この小屋が古うなって腐るまで、これでんなあ」

歌舞伎の俳優とみまがうばかりの社長は苦笑いしながらそういった。

 

昭和4622日の新聞に東寺劇場の広告が載った。大阪の新聞では初めての登場である。特に開館などの文字は書いてないが演目や踊り子の名前から推して島田興行らしい。「小屋が古うなって腐るまで、これでんなあ」といってはいたものの経営権の移動が起こったらしいと感じた。案の定それから半年も経たないS.46.7.11 DX東寺改名の広告が出た。予想通りの結果なのだが、改名の文字の上段に祝開館21周年と書いてある。21年前は昭和25年に当たる。おそらく浜本興行経営の東寺劇場はその年開館したのだと思った。

こころみに京都の新聞でその年に東寺劇場の名の広告があるか調べてみた。

S.25.2.21 に南大正座から東寺劇場に改名した広告を発見した。浜本興行主からの簡単な挨拶付きである。浜本興行はその後東寺劇場でどんな興行をしたかというと、歌舞伎、剣劇、浪花節、大衆演劇、映画などである。岐阜のまさご座も同じような興行だったが、違うのはこれらの間にストリップ興行を入れたことである。例えば一週目は歌舞伎、二週目はストリップ、三週目は剣劇、四週目はストリップなど。では東寺劇場はストリップ興行はやらなかったかというと、5年後の昭和3059102日間やっている。吉田興行にも関係した深井俊彦は昭和30年代東寺劇場での全スト興行の成功から吉田興行の隆盛が始まったといっている。どうもこの2日間の興行がそれに当たるらしい。その後これを契機に京都のストリップ界は活性化したなら話としては面白いが、単発、いや2発花火で終わっている。

大阪の新世界に温泉劇場、通称温劇という老舗がある。昭和23年浪花節興行で幕を揚げたが、3ヶ月ほどでいわゆるストリップ興行に転向した。因みに温劇と並び称される道頓堀劇場、通称道劇は昭和221月ボードビル劇場としてスタートを切るがほどなくストリップ劇場に変わったと三田純市はいっている。三田は道頓堀の芝居茶屋の息子だからこれは一級証言である。

その温劇は昭和468月いっぱいで幕引き興行をやっている。その当時他の劇場の演し物はレスビアンショーであり、温劇はといえばベッドショーが精一杯の有様だった。温劇はレスビアンショーに敗れたのである。

レスビアンショーを語るのに島田興行を抜きにしてはできない。その前に島田興行とはどういう会社なのかというと、サーカス業者上がりなのである。全国は勿論のこと、千日前や新世界の仮設興行場所などでテント営業をしていた。戦後ストリップ興行に転換した。御大の島田徳寿は艶福家の子沢山で知られる。特に娘は美人ぞろいで有名である。その中でピカ一の存在はリリー愛子といってその美貌を活かしストリップのスターとなった。島田徳寿の成功を妬むものは娘婿をストリップ屋に育て勢力を拡大している、そしてそれに飽き足らず妾腹の息子もそれに加えたなどという。そんな怨嗟の中、どこ吹く風と郷里から甥を呼び寄せてDX東寺の支配人に抜擢した。茨城弁丸出しで垢抜けしない甥は風貌からどこか軽んじられる。しかし女性には親切なのである。その甲斐あってスターの踊り子である筑紫峰花のハートを射止める。夫人もすこぶる気立てがよい。ヌードインテリジェンスの踊り子名鑑には次のようにでている。

 

筑紫峰花

福岡県出身 昭和22年生まれ 芸歴5年。ホームグランドはニュー伊丹ミュージック。結婚している。夫をたすけ、劇場経営と舞台に一生をかけたいそうで、これほど現況にご満足の踊り子はいない。元の芸名は甲絵錦志。蛍光入りのペイントで、裸体にイタズラ書きをせる演し物が得意で、B80W65H85のプロポーションは、平均的日本女性の標準である。編みものが趣味で、楽屋では、日がな一日編み棒を動かしている。

 

この甥がDX東寺でオールレスビアン大会を企画した。周りの興行師仲間はそれを冷ややかに受け止めた。

「これだからトーシローは困る。金の勘定ができない。田舎者は所詮いなかものさ」

当時劇場の出演踊り子はだいたい10人程度だった。それを初回から最終までレスビアンチームで埋めるとしたら、仕込みの人数は20人になる。倍の入場料をとれば済むのであるがそれでは客がこない。これが常識だった。

蓋を開けて見たら吃驚した。連日超満員の盛況なのである。そうと判れば現金なものである、他の劇場はそれに追随した。

いなか出の若者が大興行師への道を歩み始めるのである。