若い頃の華やかさや夢を惜しみ続けるのも愚かだ。【再読】あさのあつこ著 弥勒の月 | 生きているだけで儲けもの

若い頃の華やかさや夢を惜しみ続けるのも愚かだ。【再読】あさのあつこ著 弥勒の月

あさのあつこ著

弥勒シリーズ第1巻

弥勒の月(みろくのつき)【再読】

 
 
 

 

ネタばれあり

ご注意を❗

 

 最近私が一番ハマっている時代小説シリーズ、【弥勒シリーズ】の第1巻

 再読です。

 

 今の入院中、9巻を再読した。

 1巻に登場した人物が、久しぶりに9巻に登場する。

 1巻を再読して改めて、登場人物の

同心小暮信次郎

岡っ引き伊佐治

遠野屋主人清之介

の人となりがわかってくる。

 1巻は、このシリーズの基本であり、これから長く続くストーリーの序曲である。

 

 タイトルの言葉

 同心木暮信次郎が亡くなった父右衛門の盟友であった臨時廻り同心吉田敬之助に堅川に身投げした遠野屋清之介の妻おりんのことを聞いている。

 信治郎は、

 

    

 吉田のくどい話は鬱陶しい。鬢の白い毛も、丸めた背中も、頬から顎にかけて浮き出たシミも鬱陶しい。

親父と同じだ。

 歳を取るということが、諦めるということと重なり合っているのだ。何も望まず、望めず日々を生き、どん詰まりに無為の死がある。

 

 私も18歳で就職し、職場の55歳過ぎの先輩を見ていて信治郎と同じようなことを思った。

 そして還暦過ぎて、諦めるということは若いときより多くなった。

何も望まず、望めず。物欲はなくなったが、健康に関しては強い望みはある。

 

 信次郎が去った後、吉田同心はぼんやりと座り

 

    

 この頃、何時の間にか.....ということが多くなった。

何時の間にか刻が経っている。

何時の間にか季節が移ろっている。

何時の間にか亡者ばかり増えていく。

 身の回りから馴染んだ者や品が失せていくのに伴って、気のあり方も鈍くなっていくようだ。益々と忘れ、記憶が覚束なくなっていく。それが人の理かとも思う。

 先に逝った者や失った品を克明に覚えていては、生き抜くに苦しい。若い頃の華やかさや夢を惜しみ続けるのも愚かだ。だとすれば忘れるに限る。

 

 前半のつぶやきは、まだ還暦過ぎて1年の私にはわからない。

しかし、忘れたいことは山ほどある。忘れてしまえばどれほど楽になれるか。

 タイトルの言葉。

いつまでもそんなこと思っていると自慢話ばかりのクソじじいになってしまう。ほんと忘れるに限る。

吉田同心の思いとはかけ離れていると思うが、いつまでも栄光を抱え持っていては、暴走老人、そして老害と言われてもおかしくないじじいになってしまう。

私自身を戒める言葉である。

 

 妻を亡くした遠野屋主人清之介と話をしている岡っ引き伊佐治


    

女房の死に方に納得できねえ亭主が、こうまで滑々と動けるもんかね。

 喪失感や悲しみを抱え込んで、日々を過ごす者は幾らでもいる。

子を亡くした次の日から、愛想笑いを浮かべて働かなければならない母親も、亭主を失い途方にくれながら、まずは、明日の糧を得ることに追われる寡婦もいるのだ。

嘆く前に、食わねばならない。食わせねばならない。江戸の片すみに生きて蠢く者たちは、誰もが知っている。

 これが生きるってことさ。他にはなにもありはしない。


 今は忌引休暇があり、一定期間休めるが、それは福利厚生がしっかりしている職場。

パート、日雇い、とにかく働かなければならない、悲しみに暮れることなく心に鞭打って働かなければその日暮しがままならない者がいる。

私が小さい頃はそんな家庭が沢山あり、伊佐治親分のいうことは十分理解できる。

子が亡くなったのに、亭主が亡くなったのに早々に働くなんて言わないで欲しい。そっと見守ってやって欲しい。


 遠野屋の妻おりんが死んだ理由。考え疲れ、ふと顔を上げると


    

 大川は昼時の光に水面をちかちかと瞬かせている。どさりと音がした。塀の内、どこかの屋敷の屋根から、雪が滑り落ちたらしい。心が浮き立つ季節が来る。

 若菜摘み、梅見、桜見、風が柔らかくなり、空の色が淡くなる。苗売りの声が響き、女たちの動きが軽くなる。宵闇の中に甘い花の香が混ざり、夜気がねとりと絡みつき、猫が騒ぎ、鳥が囀る。


 昨年も、今年も多分、春の訪れを感じることができなかった。そしてできないであろう。

 五感で季節の移り変わりを感じたい。

満開の桜を愛で、

春の訪れを告げるヒバリの鳴き声をきき、

沈丁花の甘い香りを胸いっぱい吸い込み、

タラの芽の天ぷらに舌鼓をうち、

春の日差しをうけて散歩をしたい。

 病室では、冬から春への移り変わりを心躍らせることはできない。

今年もショボーン


 さて、ストーリー

 遠野屋主人清之介の妻おりんが身投げした。

 その瞬間は見ていないが、履き物を扱う稲垣屋の主人が身投げしたであろう音を聞いた。

橋の上にはおりんが履いていただろう赤い鼻緒黒塗の下駄。

それを持って稲垣屋の主人は自身番に行ったはず。自身番に行ったが、下駄のことは話していない。

 稲垣屋の主人が殺された。見事なひと太刀で。どうして殺される?

 おりんの母おしのが首を括ったが一命をとりとめた。呼んだ医者の名は源庵。

 稲垣屋の主人が遠野屋主人の妻のおりんが身投げしたときにいたと証言した、夜鳴きそば屋の弥助が切り刻まれた姿で見つかった。探している最中に。しかし切り刻まれたにしては出血が少ない。首を括られたか?首に跡がない。

 遠野屋主人が襲われた。しかも住居の庭で。

 探索が進められる。

 おりんの身投げは.....昔手ごめにされ妊娠。3月でその時の子は流れ、もう子は授からないと思っていた。

手ごめにしたやつは、同心信治郎の近辺にいる者。そして其奴はいくつかの殺人に関わっている。

 おりんが、川に飛び込んだ理由は.....

 ひと太刀に斬られた稲垣屋

膾のように斬り刻まれた夜鳴き蕎麦屋の弥助。

そうなった理由は.....

そしてその犯人は?

さらに操っていた者がいる。おりんも操っていた。

 1巻で遠野屋清之介の過去がしっかり描かれている。しっかりと頭に入れておかないと2巻からの展開で過去につながっていることがどんどん出てくる。しかも重要な局面で。


 最後に.....

 この著書の解説をしている児玉清(俳優)さんが言っています。


 

 世に面白き時代小説は数々あるが、滅茶面白く、なお且つ読む者の肺腑を鋭い刃物で抉るかのごとく、人間とは、男とは、女とは、人生とは、そして生きるとはなんたるかをズシンと胸に響く言葉で教えてくれる本は、そうざらにはない。

 

 私がこのシリーズにのめり込んでいる理由をズバリついている。

 推理小説のごとく入り組んでいるストーリーの展開に引き込まれ、登場人物が語る言葉に生きること、強いては人生を見詰め直す。いくつもの教訓、ストーリーの面白さを与えてくれる時代小説シリーズである。

 また、児玉清さんは「弥勒」についてこのように説明している。

 

 因みに「弥勒」とは釈尊の救いに洩れた衆生をことごとく済度(人々を迷いから解放し悟りを聞かせること)するという未来仏の意味である。

 遠野屋清之介は、亡くなった妻おりんをいくつかの場面で「弥勒」であると語っている。1巻だけではない。シリーズ全ての巻で。


 最後まで読んで下さった方、お疲れでしょう。

 貴重な時間を割いていただきありがとうございました。

 感謝❗