とりあえずこのブログは音楽関係75%くらいで固めようと思ってるので、
改めて過去に音楽やってたことを振り返ってみよう。
鍵盤やってる人のイメージといえば「3歳の頃から」に代表される幼少期のピアノなんだろうけど、自分の場合は少し遅くて高校入ってから。
しかもピアノなんかは音楽室のそれをペタペタ触るだけで音なんかまともに出したことなかったので、シンセ鍵盤一辺倒。
そんな中、ほぼ数合わせ的な理由で布袋とかLUNASEAのバンドに呼ばれる。
渡される譜面はギター・ベース・ドラムがみっちり書かれていて、鍵盤は無いか、あっても暇、時々目を覆いたくなる早弾きフレーズ。
酷いときには、ボーカル・ベース・ギター1・2・3・ドラム・終わり、なんていうものもあった。
そのときに自分から発した、
「なんかこれ暇だから好きにやっていい?」
この一言が、自分の今後の鍵盤スタイルを決定付けることになるとは。
それ以降、譜面読まずにコード振り+勘だけで演奏するスタイルが確立、今日に至る。
高校の時は地元で布袋&LUNASEAだが、
これが大学に行くと都内でラルク&GLAYという、流行バンドに借り出される日々である。
大学時代は埼玉・東松山に住んでいたのだが、毎週月曜夜8時になると、
足利からドラムが車を出し、
熊谷でボーカルを拾い、東松山で鍵盤(俺)を拾い、川越でギターを拾い、三鷹でベースを拾い、吉祥寺のスタジオでナイトパック4時間。
当然毎週火曜の授業は出席してないw
無茶やってましたが、楽しかった。それなりだけど。
2000年、都内で就職してからパッタリと演奏するほうの音楽から離れた。
社内バンドはあるにはあったのだが、あんまり楽しい音楽ではなかったかな。
それも2005年夏に精神ヤッて会社辞める。
2006年初に栃木の実家に戻る。
大学の時にバンド組んでた人と再会、売れ線オリジナルバンドに呼ばれるも、それほど長く続かない。でも1年半くらいかな。
1994年に手にしたRoland JW-50もそろそろガタが来てたので、
2009年にKORG M-50を購入、その頃からZABADAKとか新居昭乃さんという、大学以来自分が好んで聴いていた音楽の演奏サークルに顔出すべく、鍵盤担いで都内と足利を往来するようになる。
その演奏サークルで、後の幻月堂の一人からナンパされるわけで。
2010年、幻月堂結成。
ここに至る前にやたらと音量のかさむ音楽をやってきたが、
歌2人+ギター+鍵盤という構成の4人組を組む。
長い下積み生活が終わったかな、と思う。
オリジナル曲は現時点では無いのだが、それにも関わらず演奏用の譜面が存在しない。
「原曲と同じようにやるのはつまらない」なんて言いません。それは「同じようにできるようになって」から言うべきことで。
「同じ演奏は二度と出来ない」という、スリリングで適当なプレイがテーマ。
「次の手が直ぐに出てくるのなら諦めなんて早くていい」
2週間に一度足利と都内を往復する生活が始まる。
月の週末半分以上は地元にいません。そりゃ女はできない。(きいてない)
そして2013年はソロライブとかやってるわけですよ。
シンセ鍵盤一辺倒だったのが、突然ライブハウスのエレピを借りると、
そこはウェイテッド鍵盤、腕痛いですやっぱり。
「スリリングで適当」の上に「変幻自在」を乗っけるプレイを目指してみたい。
上手い人はいくらでもいる。上向いたらキリないけど、やっぱり行き着くところは「勘」だと思う。
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初ソロライブの翌日、大学の時に住んでた街を歩いていたのだが、
一番驚いたのは駅前の建物で、店の名前がそのままで、本屋が葬儀屋に変わっていたこと。
そのライブの最後でやった「一番輝いた場所で」の歌い出し「8月のガラス越し」は東京・蔵前のある葬儀屋の窓。
どうして、あぁいうところから見る空ってあんなに綺麗なんですかね。
改めて過去に音楽やってたことを振り返ってみよう。
鍵盤やってる人のイメージといえば「3歳の頃から」に代表される幼少期のピアノなんだろうけど、自分の場合は少し遅くて高校入ってから。
しかもピアノなんかは音楽室のそれをペタペタ触るだけで音なんかまともに出したことなかったので、シンセ鍵盤一辺倒。
そんな中、ほぼ数合わせ的な理由で布袋とかLUNASEAのバンドに呼ばれる。
渡される譜面はギター・ベース・ドラムがみっちり書かれていて、鍵盤は無いか、あっても暇、時々目を覆いたくなる早弾きフレーズ。
酷いときには、ボーカル・ベース・ギター1・2・3・ドラム・終わり、なんていうものもあった。
そのときに自分から発した、
「なんかこれ暇だから好きにやっていい?」
この一言が、自分の今後の鍵盤スタイルを決定付けることになるとは。
それ以降、譜面読まずにコード振り+勘だけで演奏するスタイルが確立、今日に至る。
高校の時は地元で布袋&LUNASEAだが、
これが大学に行くと都内でラルク&GLAYという、流行バンドに借り出される日々である。
大学時代は埼玉・東松山に住んでいたのだが、毎週月曜夜8時になると、
足利からドラムが車を出し、
熊谷でボーカルを拾い、東松山で鍵盤(俺)を拾い、川越でギターを拾い、三鷹でベースを拾い、吉祥寺のスタジオでナイトパック4時間。
当然毎週火曜の授業は出席してないw
無茶やってましたが、楽しかった。それなりだけど。
2000年、都内で就職してからパッタリと演奏するほうの音楽から離れた。
社内バンドはあるにはあったのだが、あんまり楽しい音楽ではなかったかな。
それも2005年夏に精神ヤッて会社辞める。
2006年初に栃木の実家に戻る。
大学の時にバンド組んでた人と再会、売れ線オリジナルバンドに呼ばれるも、それほど長く続かない。でも1年半くらいかな。
1994年に手にしたRoland JW-50もそろそろガタが来てたので、
2009年にKORG M-50を購入、その頃からZABADAKとか新居昭乃さんという、大学以来自分が好んで聴いていた音楽の演奏サークルに顔出すべく、鍵盤担いで都内と足利を往来するようになる。
その演奏サークルで、後の幻月堂の一人からナンパされるわけで。
2010年、幻月堂結成。
ここに至る前にやたらと音量のかさむ音楽をやってきたが、
歌2人+ギター+鍵盤という構成の4人組を組む。
長い下積み生活が終わったかな、と思う。
オリジナル曲は現時点では無いのだが、それにも関わらず演奏用の譜面が存在しない。
「原曲と同じようにやるのはつまらない」なんて言いません。それは「同じようにできるようになって」から言うべきことで。
「同じ演奏は二度と出来ない」という、スリリングで適当なプレイがテーマ。
「次の手が直ぐに出てくるのなら諦めなんて早くていい」
2週間に一度足利と都内を往復する生活が始まる。
月の週末半分以上は地元にいません。そりゃ女はできない。(きいてない)
そして2013年はソロライブとかやってるわけですよ。
シンセ鍵盤一辺倒だったのが、突然ライブハウスのエレピを借りると、
そこはウェイテッド鍵盤、腕痛いですやっぱり。
「スリリングで適当」の上に「変幻自在」を乗っけるプレイを目指してみたい。
上手い人はいくらでもいる。上向いたらキリないけど、やっぱり行き着くところは「勘」だと思う。
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初ソロライブの翌日、大学の時に住んでた街を歩いていたのだが、
一番驚いたのは駅前の建物で、店の名前がそのままで、本屋が葬儀屋に変わっていたこと。
そのライブの最後でやった「一番輝いた場所で」の歌い出し「8月のガラス越し」は東京・蔵前のある葬儀屋の窓。
どうして、あぁいうところから見る空ってあんなに綺麗なんですかね。