5.Mojave砂漠 | 横断の轍~The trail from coast to coast~

横断の轍~The trail from coast to coast~

2000/10/17~12/9に行った北米大陸横断自転車旅行(Los Angeles~New York)の記録

【10月21日:走行距離=97km】
 砂漠らしく、きれいに晴れた朝だった。しかも疲労のおかげで熟睡できた。今日こそBarstowを目指して走る。砂漠の中の丘のupdownの道。登りになるとがくんと速度が落ちるが、仕方ない。砂漠行軍に備えて、水を8リットル近く、数日分の食料を積み込んでいるのだから。Hesperiaのマックで朝食。Victorvilleまでは真北に針路を取る。この日は強い南風で、北に向かった瞬間、フル装備の自転車が40km/hで疾走を始めた。笑いが止まらない。Victorvilleで、峠区間はOld Route66と重なるInterstate15(以下I-15)と再会。ここから、San Bernardino以来のRoute66旧道区間が再び始まる。
 確かに砂漠の中の二車線一の一本道ではあったが、平坦であったこと、晴天の上に追い風が吹いていたこともあって、楽だった。それに、大陸横断鉄道(Burlington Northern Santa Fe鉄道=BNSF)の長大な貨物列車が並走していたこと、時折現れる、【Historic Route66】の標識には心を躍らせた。
 追い風のおかげでBarstowに2時過ぎに着いてしまった。暇なので街中を散策した。Barstowは砂漠の中に忽然と現れる交通の要衝で、道路も鉄道も、東西、南北に分岐する。Route66の現行ルートは、I-15からI-40にかわる。この先は遥かOklahoma CityまでI-40との長い付合いになるのだ。
 当然BarstowはRoute66の時代から一大ジャンクションだったわけで、街の中にはRoute66時代を想起させる、モーテル、Cafe,ミュージアム、街並みで、旅の雰囲気を盛り上げてくれた。
 モーテルのマネージャーに、この先進む道について尋ねた。
 「それならI-40を使いなさい。簡単だよ。」 「え?でも僕は自転車だ。Frwは自転車通行禁止では?」 「大丈夫、ノープロブレム。」 「ヘ?」 一瞬、気が抜けた。気が楽になったと言う方が正確かもしれない。つまり、並走する一般道がない場合は、通常自転車通行不可なFrwでも、例外的に通行が認められるのだ。これで目処が立たなかったBarstowから先の展望がぱぁーっと開けた。
 モーテルの部屋の中で、LAで題名だけ見て衝動買いした『Route66 Traveler’s Guide』をふと手にとって読んでみた。すると、旧Route66と現行ルートの詳細な地図と、それに関する丁寧な説明、観光ガイドが載っているではないか。思わず読み耽ってるうちに、明日からのRoute66の旅が楽しみになってきた。これではるばるSt. LouisまでRoute66の旅をしようと心に決めた。(本来Chicagoまでが全線だが、時期とNYまでの行程を考えてSt. Louisまでとした。) この日は中華レストランで夕食。こんな砂漠の真っ只中では、日本食が期待出来ない以上、中華料理は本当に嬉しい。店のおばさん(韓国人)は、 「自転車でNYまで走るんだ。」と言うと、ぶったまげていた。
 「バスでもまる4日かかるわよ。」 これが遠いを意味するのか、近いを意味するのか、それすらも想像がつかない。

【10月22日:走行距離=138.33km】
 日の出前に起きると、空は晴れていた。ニヤリとして、もう一度よく外を見てみると、昨日とは逆の方向に木が揺れているではないか。しかも激しく。
 朝はひどい向い風だった。昨日40km/hをも可能にした風は、今日は15km/h制限に豹変していた。おそるべし。
 閑散としたBarstowの街を通りぬけると、全ての道はI-40に合流し、再び砂漠へと戻る。初めてのFrw走行にどぎまぎしながら、ランプを駆け上る。フリーウェイとは、日本で言うならば、料金の要らない高速道路である。日本では、「高速道路を自転車で走れたら、ツーリングはどんなに楽だろうなぁ…。」なんて思っていたが、実際、皮肉にもその“夢”をアメリカで叶えてみると、そんなに有り難いものではないことがわかった。地平線に向かって伸びる道を、クルマは120km/h以上で疾走していく。路肩は広くても、すぐ側を数十㌧のトレーラー(全部でタイヤが18個着いているので、18Wheelerと呼ぶらしい。)が爆発的横風を浴びせながら通過していく。インターチェンジでは、左から(右側通行!!)飛び込んでくるクルマ、右から寄ってくるクルマにビクビクしながらダッシュしなければならない。
 しばらく走って、再び砂漠の中にOld Route66が現れる。カリフォルニア州の法律では、並走する一般道がある区間はFrwは自転車通行禁止となっているようだ。滅多にクルマの来ないRoute66を鼻歌交じりにのんびり走る。道中には、砂漠と、並走する鉄道の線路と、道路以外に何もない。数十㌔おきに現れるさびれた集落に、雑貨屋併設のガソリンスタンドがぽつんとあって、それが開いてれば良い方であった。
 大量の水を運搬する為、今回は折りたたみ可能なポリ容器の水筒(2.5l)を3つ用いたが、途中で寄ったGSで、うちひとつが穴が開いて水漏れしていることが発覚。猛烈に暑く、命の次に水が重要というような夏場でなかったので、廃棄する。
 少し昔の映画、『Bagdad Cafe』(‘87西独:サントラの”I’m Calling You”が有名)の舞台となった、その名のCafeの前で写真を撮ってからもまた気の長い旅は続く。
 向い風は大人しくなったが、天気が下り坂。Mojaveではじりじり照り焼きにされるのでは、と思っていただけに拍子抜け。Ludlowのドライブインでファーストフード。この手前のFrwの[Next 80miles No Service](=ここから先130kmいかなる施設もありません)の標識には焦った。ここの土産屋で、Route66のバッジ発見。走り抜ける各州の州名入りのバッジだったので、その州に入った時にそのバッジをフロントバッグに付けることにした。まずはCalifornia US Route66のバッジを購入。
 Ludlowから先のRoute66はI-40から離れ、単独行軍となる。何十年か前に舗装された路面がそのままに放置され、舗装が非常に悪い。厳しい気候に路面には縦横に亀裂が入り、食後に走ると、下から突き上げる振動に気持ち悪くなってしまった。クルマは更に見かけなくなった。一時間に数台来るか来ないかだった。これでは、万が一立ち往生しても、ヒッチハイクすらおぼつかない。
 砂漠の荒野の中、いくつかのクレーターの傍を走った。隕石が落っこちた後が、風化の少ない砂漠気候の中でそのまま残ったのだ。
 地平線の先に見えた黒い点がふらふら揺れながら大きくなって、良く見ると、何とサイクリストだった。しかも、壊れそうなMTBに跨る、麦藁帽子にGパンといういでたちの初老のおじさん。しばらく話し込んだ。南の方から来たらしい。NYまでと言うと、「それはすごい。」と驚いていたが、その歳になってもこんな荒野を独りで旅行するおじさんもすごいよ、と思った。砂漠の中、ひょんな事で知り合った我々は、また何事もなかったかのように、お互い自分の進む方向にペダルを踏み出した。
 単調な道が続き、距離の感覚も時間の感覚もあやふやになってしまった。距離的には結構走った。夕方、曇天の中、半日ぶりの町、今日泊るつもりの町、Amboyに到着。砂漠の中にぽつんとある町なので、遠くからたった一軒のモーテルの看板がよく見えた。アメリカでは、どんな小さな集落でも、集落に入る時にその町を示す標識がある。この時は、【AMBOY ESTABLISHED 19** POP20】とあった。その町ができた年代と、現在の人口である。ちょっとだけ嫌な予感がしたが、まぁガイドブックでもBarstowで聞いても、Amboyにはちゃんとモーテルがあるから大丈夫ということだったから、と町に入る。
 モーテルにどうも人気(ひとけ)がない。中から、Michaelと名乗る人の良さそうな黒人のおじさんが出てきた。
 「Is Roy’s Motel(←一軒のモーテルの名前) open today?」 「Roy is dead.」 「…!?」 予感的中。モーテルは潰れていたのだ。これは、もはやメインルートでなくなったRoute66沿いではよくある話で、ただその中でも有名なRoy’s Motelを在りし日の姿に戻すべく働いている大工さんがMichaelだった。とは言っても、前後100km近く、町も店もGSも何もない砂漠のど真ん中で、どうしようと途方に暮れていると、Michaelが町に住む誰かに電話してくれたようで、町の中で安全にテントを張れる小屋の場所を教えてくれた。町とは言っても、潰れたモーテルに、GS、郵便局と、鉄道の信号所、数軒の家と廃屋しかない。人口20人というのも、実際には6人、しかも老人ばかりだそうだ。
 テントを張って、夕食を食べて、早々とテントに潜り込む。時折、近くを通る貨物列車の轟音が聞こえてきた。夜中から雨が降り出した。

【10月23日 :走行距離=125.32km】
 朝起きると、やはり雨。出発の準備をしていると、ピックアップに乗って町を出ていくMichaelが手を振ってくれた。少なくともCaliforniaとArizonaの乾燥地帯では雨はあり得ないだろう、と思っていたのに、早くもその期待は裏切られた。雨装備にして出発。
 車はほとんど来ない。時折現れる町は全てゴーストタウン。くたびれた舗装のRoute66が、何もない、雨に煙る砂漠の彼方へ無表情に伸びる。雨は止まない。何となくの向い風に疲労が募る。休憩ポイントが皆無なので、自転車にまたがったままでサイドバッグの中にある食料を頬張る。日本のコンビニと、座って休めることの有難さを痛感する。変化といえば、時折鉄路を行き交う長大な貨物列車だけだった。アメリカの貨物列車の長大さは、想像を上回り、長さは数キロに及び、それを牽引する機関車は最大6重連、コンテナは二段積みだった(アメリカは、トンネル無しで西海岸から東海岸まで行ける!!)。一本の列車に抜かれるのに10分以上かかることもあった。
 第二次世界大戦中、米軍は、アフリカ上陸、砂漠での行軍を想定して、Mojave砂漠で軍事訓練したという。Sahara砂漠よりもある意味で「厳しい」気候なのだそうだ。夏に走っていたら干上がっていただろうなぁ、と思えば、涼しい雨は恵みだったのかもしれない。
 ある地点で、Route66はFRWに合流するため、I-40を走る。Arizonaとの州境を流れるColorado川の谷へ向けて、ひとつの大きな峠を越え、それから猛烈に下る。それが高速道路なので、緩やかに登り切り、それから延々下るのだ。ともに飽き飽きするほど長い。
 雨は上がって、晴れ間が見えてきた。Colorado谷の遥か対岸には、グランドキャニオンを擁するArizonaらしい、円筒や針のような山々が見えてきた。明日、もう一度そのてっぺんの台地まで登り直さねばならないと思うと、ちょっと気が滅入った。
 California最後の町、Colorado川のほとりはNeedlesに着いた。Old Route66沿いにはいろんなモーテルがあり、選ぶのに苦労した。その基準は、値段だけなのだが…。一泊$17のモーテルを発見し、投宿。マネージャーに次の日に走るべき道を尋ねると、色々親切に教えてくれた。知合いで北米横断をした人の話もしてくれた。同宿で一緒に受付をしたおじさんは、詳細な地図も貸してくれた。田舎の人は、皆良い人だ。
 夜は、迷わず見つけた中華レストランに飛び込む。いつだって、ご飯がいい。