OKwave で回答したところ、ベストアンサーにしていただいたのでご紹介します。

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私は幼馴染や親友から、寂しがりやの超甘え下手だと言われました。そこを治すと、もう少し可愛げのある女性に、愛される女性になると。
自分ではよく解りません。
幼い頃から祖母と暮らし、父親と一緒に暮らしたことがないせいでしょうか?
確かに、素直になる ことに今まで抵抗がありましたが、そこは極力心がけていて、
素直になっても大丈夫な人には素直にしています。
男性に甘える、とはどういうことですか?
メールなどでの対応や、会ってる時など
具体例なども教えていただけると大変ありがたいです。
よろしくお願いします。


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私の回答です。


はじめまして。

拝読しました。

「幼い頃から祖母と暮らし、父親と一緒に暮らしたことがないせいでしょうか?」

ここであなたが認めたくない気持ちはなんでしょう…。

幼馴染や親友から、寂しがりやの超甘え下手だといわれているのですね。

このことをどう受け止めますか?

私の勝手な想像なのですが、本当はとても寂しいという気持ちをとても強く押し殺しているのではないでしょうか。

自分は我慢しなければいけない、強くなければいけない、わがままを言ってはいけないと思っているかもしれません。

ということは、甘えるとは、

・あまり我慢しない
・弱いところを見せられる
・適度にわがまま

ということかもしれないですよ。

ところであなたはもてたいのですか?

そんなことより、あなたはきっと信頼できて安心できる男性を求めているのではないでしょうか。

だとしたら、かわいげのある女性なんか目指さないで、自分らしい女性になればいいのではないでしょうか?

ゆっくり、自分の本当の気持ちをわかってくれる人にだけ、大切なあなた自身の本当の気持ちを見せてあげてください。

あなたの願いはきっと叶います!!!

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質問者さんからのコメントです。

はじめはして。
心の込もったメッセージ、大変ありがとうございました。
【本当はとても寂しいという気持ちをとても強く押し殺している】
その通りだと思います。
一人は平気ですし一人の時間は大切です。
けれど、どうしてもどうしても、拭い去れない寂しさが、常に心の奥の方にあります。
【もてたいですか?】
では、正直ノーです。
好きでもない人から続くアプローチは、
無駄の何者でもありません。
けれど、自分が好きな相手からは、好かれたい。
おっしゃる通り、【信頼できて安心できる相手】を求めています。
【自分らしい女性】のままでいいのですね。けれどこんな私を大好きになってくれる人には惹かれず、自分が大好きになる人とは中々上手くいかないんです。
【ゆっくり、自分の本当の気持ちをわかってくれる人にだけ、大切なあなた自身の本当の気持ちを見せて】
やってみます!
【あなたの願いはきっと叶います】
ありがたくて言葉がみつかりません。
涙が出ました。
頑張りますね。
頑張って、生きていきます。


日本刀の研ぎ師を取材した番組を見た。


研ぎ師は全国で50人くらいしかいないのだが、年に一回ほど、研ぎ師のコンクールがあるらしく、その様子が映っていた。

このコンクールでは、主に若手が出るようだったが、大体300年~400年前の刀を研いだものを出品し、研ぎの技術を競うというものだった。

日本刀は、そのままで美しいというものではないという。作刀家が丹念に鍛錬して作り上げた刀は、あくまでも鉄に形を与えるという事であって、その本来の姿は、研ぎ師によって磨き上げられてこそ初めて姿を現すという。

そして、どう本来の美しさを引き出すか、ここに研ぎ師の技量と個性が出るのだという。

例えて言えば、化粧で人の個性を引き出すようなメイクアップアーティストというところか。

ところで、この番組のテーマでもあったが、コンテストには300年~400年前の刀を研いだものを出すというのには、特別な意味があるのだと思う。

そもそも日本刀の技術は、今から1000年前の平安時代には完成されており、今もその技術は大きく変わらないという。

だとすると、今作られたものと、昔に作られたものでは、その性能やデザインに大きな違いはないのだと考えられる。

そして、刀は鉄なので、どんなに丹念に手入れをしたとしても、さびや曇りが出てくる。

刀を研ぐという事には、よみがえらせるという意義があるのだろう。

それと、このように経年劣化に対応していくという以上に、研ぐという事には新たな解釈を加える、という意味合いもあるのだと思う。

研ぎ師は刀と対話しながら、この刀の本来の持ち味とは何か、これをどう捉え、どう引き出すか、過去の研ぎ師と、現在の研ぎ師との解釈と個性のちがいや、過去の解釈を踏襲しながらも、さらにこれを深めることを競うという側面もあるのだと思う。

そして、何より重要なのは、刀を次の300年~400年の未来に引き渡すということだ。

日本刀には日本人の英知が詰まっているとともに、この本来の美しさを損なわせずに、100年単位の未来を見据えて、受け継ぎ、引き渡されてきたという事もまた意義があり、さらに美しさが輝きを増すというものだ。

これが研ぎ師という仕事の価値なのだろう。

そして、こういう時間軸というものもあるのだ。

イノベーションや産業構造の大きな変化というものが、社会を変え、ライフスタイルを変え、生き方や人生観を変えるということもあるだろう。

まったくヘーゲル的なイデオロギーの弁証法的発展という歴史観そのものだ。

しかし、そういうものが提供してくれる未来像というものがありながら、研ぎ師のように、まったく別の形で未来というものを見据えることだってできるのだし、これはすべての人に共通して描くことが出来る未来像だと思う。

株のトレーダーは0.1秒先の未来を如何に捉えるかで成否が決まるというが、私たちにとって最も重要なのは、100年のオーダーで今何に決着をつけておくべきか、何を引き渡し、残しておきたいかという事ではないだろうか。

1000年たっても変わらずにここにあるというものには、誰かによって多くの英知と努力とが傾けられていることを知るべきである。

これはとにもかくにも、美しいのだ。

そして、これを見る者の心に何かがよみがえってくる。

こういう仕事があるということを知って、少し生き方が変わったように思う。


共同体感覚という概念は、アドラー自身によって定義がされないまま、今日まで来てしまった概念といえるが、なんとなくわかったような気になったりする概念でもある。


とりあえず、人は育った環境を引きずるし、この延長線上で仲間を作ったりもするし、この感覚を超えて改めて人間関係を作ったりもする。

周囲への信頼関係なしに人は行動できないというより、そもそも存在自体が危うくなる。


人はコミュニケーションに運命づけられているという事がいえると思う。


とはいえ、この原風景は、育った土地や育った郷土の臭いをいつまでも引きずるのだと思う。


この原風景の持つ意味は、どのようにでも解釈し得るのだし、再構成し得るのだから、良いものであっても悪いものであってもいい。


しかし、これはコミュニケーションが構造として成立していればという条件付きだ。


そもそもコミュニケーションの構造が成立していなければ、再構成などしようがない。しかし、私たちがこうして生きているという事は、既になにがしかのコミュニケーションとしての関係性の中に位置づけられており、これを自らも内面化しているという事だ。


どこまで行っても私たちは、つながっているという事に意義を感じる生き物らしい。



ところで、平和に対する考え方にコスモポリタニズムというか、世界市民とでもいうような、特定の生まれ育った土地とか、ローカルなものに依拠しない生き方みたいのがもてはやされたりもする。



イメージとしては、、外国に気軽に出かけるようなフットワークを持ち、世界中を肌身で感じて、広い視野を持ったというような感じだろうか。


坂本龍一なんて、まさに世界市民みたいなことを盛んに言っているし、World Citizenなんて曲を作って、ニューヨークと東京を行き来して、なんとなくかっこいいようなイメージをこの言葉に付加していたりする。


しかし、そういう自分の根っこと切り離された生き方というのは、とても精神的に貧しいものしか生まないのではないかという反省が近年になって盛んになってきたように思う。


そもそも核家族とは、江戸期以前からして、農家の二男坊三男坊が田舎から追い出されて都に出て働きやすいような家族構成だ。


近代市民社会の成立のためには、土地に付帯する生産手段から切り離された自由な労働力としての個人の存在が不可欠で、いわゆる土地から根切りされた農民が存在しなければならず、織田信長の天才はこれを見抜いていたので、土着的信仰生活を基盤とする浄土真宗を敵視し、これから農民を引き離すことで極東アジアで近世と商人が活躍する貨幣経済社会を準備したといえる。


宗教史の中において浄土真宗に対する弾圧は広義の都市化の流れの中で幾度か弾圧されたのには、このような理由があり、逆に言えば、最大の信徒数を誇る浄土真宗の存在は、広義の都市化・近代化に対する私たちの心理的抵抗感を示すものではないだろうか。


ところで、時代は大きく変わるが、このような流れに反する動きとして、例えば、瀬戸内しまなみ国際芸術祭の取り組みとかが、ニューヨークの最先端の現代アートシーンから注目されて、一時期合言葉のように「shimanami」という単語が飛び交っていたらしい。


これには理由があって、アート作品が都会のアートシーンから飛び出して、きわめてローカルで土着的な場所で制作され、これが中央ではなく地域のマーケットで売り買いされるというアートの地産地消が行われた。

また、風車を数千と配置した地元の老人たちがこれが現代アートなのかと感心して一部を譲り受け、自分たちの住む島の地蔵の周辺に改めて設置し、これがまたアートだと取り上げられて観光客を読んだりするという、伝統的な生活文化の一部がアートとなり、アートのプリミティブなルーツを浮き彫りにして見せたというのはとても画期的な事だった。


ニューヨークモダンアートの出発点は、普通の男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をし、『泉』というタイトルを付けたマルセル・デュシャンの作品だといわれているが、美術館という場に既製品である便器を展示することで、既成の美の概念を相対化させた。


これに対して、そもそも美術館や大都市であるニューヨークや、そこで流通しているモダンアートという枠さえも相対化し、このような価値の転換をしてみせたというのは、素晴らしい出来事であった。


つまり、きわめてローカルなものがグローバルであり、トラディショナルなものが最先端であり、まったくありふれたものが最も個性的であるという、今までコスモポリタニズムで価値があるとされていたものが、見事に反転されたというのは、きわめてラディカルでポスト近代的な出来事だったのではないか。


こう考えていくと、私たちコーチやファシリテーターというものは、コスモポリタニズムに属する人たちではない、ということは少なくとも言えそうで、一見空間的にも時間的にも、様々なものから制約のない自由人が最も平和に近いと思われていたのが、実はそうではないのではないかとさえ思えてくる。


そもそも、コスモポリタニズムとは、社会主義の用語でいえば、世界同時革命を担う革命戦士の行動規範のことであったり、反日を徹底することによって暴力的犯罪的日本人であることの原罪を免れるという「世界革命浪人」という実にとても危険で古臭い考え方だ。


とすると、私たちは性急に何かを革命的に変えようとしているのではなく、与えられたものを如何に最大限生かしつくすかということを考える人たちなのであり、同時に「与えられた場所で如何に咲くか」という壇蜜的な教えを踏襲している人種なのではないだろうか。


こういう前提で改めて、アドラーが言う共同体感覚とは何か、そして、コーチやカウンセラーやファシリテーターが目指す理想的社会像とは何かについて、改めて真剣に考えないといけないのではないか、となんとなく考えています。


最終的に商品を完成させるものは、社会の枠組みとか仕組みなのではないだろうか。

ジョブスはモノづくりの天才で、今の社会の仕組みを前提として、高度に洗練したものを出してくる。例えて言えば、単なる刃物を高度に洗練して刀を作り出し、精神性まで感じられるものへと昇華していくかのようだ。

...

彼の天才は彼独自のものであることには変わりないが、ソニーなど日本のモノづくりの伝統に対するリスベクト、そして禅を実践し、この精神をモノづくりに生かしていったというのは、よく知られたところ。


しかしどうだろう、それは天才の為せる業であって、芸術作品とは、一人の作家の天才によってのみ生み出されるのであって、彼の功績は、家電製品に芸術性を持ち込んだというクレイジーさに尽きるのかもしれない。


ところで、コンピュータリゼーションを推進したのは圧倒的にゲイツであって、彼はコンピュータープログラムは著作物であり、法律によって保護されるものであるという発明を行った。


正確に言えばこれは発明ではないのかもしれないが、優秀なプログラマーが作成したソフトを、だれかれとなくコピーしまくって無秩序に氾濫していた時代に、これが著作物であり、作成者にはそれ相応の対価を求める権利があるとして、コンピューターソフトウェア界に法秩序と、これにより円滑に持続的な著作物の流通を可能にさせる市場原理を持ち込んだのは彼の功績であったともいえる。


近代市民社会の成立とともに整備されていった近代法の体系の理念は、市民一個人に権利と自由を保障し、これを国家が保証するものである。


彼は優秀なプログラマーであると同時に、とても優秀な法律家であったことを忘れてはいけない。


彼はソフトウェアという商品と、これが流通する市場そのものを法制度の上に発明したのだ。


同時に、優秀なプログラマーのソフトを安く買い取って高値で販売するために我が物にしていったという狡猾さもあったが、法秩序の上にソフトウェアを位置づけることで、同一のソフト上で情報が行き来し、高度情報化社会を創出して見せたという彼の手腕の前には、狡猾な手法など帳消しになって余りある。

確かにジョブスとゲイツの間には、この狡猾さを巡る行き違いがあったが、結果として大いに補うところがあり、コンビュータリゼージョンはアメリカの独占するところとなった。


マザーテレサは、「私はマケドニアの商人の出であり、狡猾な人間である。しかし、この狡猾さが無ければ善を行うことは出来ない」と平然と言い放っていたが、確かにそうなのだ。


私たちコーチングの世界に生きているものからとらえ直すと、いくら優れたコンテンツを作り出したとしても、これを流通させる仕組みを作らなければ、宝の持ち腐れであるどころか、コンテンツを生み出すことそのものが不可能になる。


かくゆう吉田でも、クライアントさんが感激して号泣するくらいのコンテンツは、当たり前に幾らでもある。


ジョブスにせよゲイツにせよ、各々数百年に渡る歴史の文脈の上に成り立っているともいえる。方や洗練

しし続けたモノづくりの伝統であり、方や近代法の伝統であるという違いはあるにせよ、この文脈を自ら選択、踏襲しており、新たな歴史を作り、向こう数百年輝きを失わない歴史的功績を打ち立てたといえるのではないだろうか。


少なくとも、彼等には未来が見えている。


これは、社会の枠組みや仕組みを延長するという事、この応用力に掛かっている。


やはり、今の時点から、100年のオーダーでものを捉える必要があるのだな。


簡単ではないか!?

少し自分の中でまとまったので、消極的な証明について書いてみる。

「完璧を目指さず、ある程度の完成を見たら実行する」というのは、効率の問題だけではない。

正しい知識を教えれば、人は正しい判断ができ、正しい行動をとるはずだ、というのは、仮説にしか過ぎない。

人は個人としてまったく無前提に生きているわけでもなく、無前提でないのだから、合理的判断によってのみ合理的に動いていないから。

換言すると、人は暗黙の諸前提をもって判断し、行動しているから。

この場合の暗黙の諸前提とは、その人固有の在り方に関するものを意味する。
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確かに、「完璧を目指す」ことには、完璧を目指す目的があり、合理的な理由がある。

これは、「説明責任」という倫理問題である。

例えば、セミナーにおいては正しく完成されたコンテンツを提供するべき、という主張は、正しいこと・完成されたことに意義があり、この意義は、責任を果たすということ、人にものを教える・伝えるという際に生じる責任を全うする意義がある。

これは確かにそうで、間違ったことを伝えることは、偽であり、無責任なこと。

この場合の間違いとは、内容が間違っているかどうかという以前に、トレーサビリティとして、詳細を知りたいという際に後追いが出来るように出典を明らかにする、用語を統一する、などを含む。

このように考えていくと、例えば、私たちがアドラーをベースにしたコーチングを説明するという際、人が持っている可能性について潜在意識という言葉を使うべきか、無意識という言葉を使うべきかは、部分的にでもアドラーについて説明するならば原典に当たって確認するべきであって、本当にアドラーが潜在意識や無意識という言葉を使っているのか、使っているとしたら、どういう文脈化は、絶対に抑えていなければならない基本事項である。

そうでないなら、アドラーを説明しようとして、誤ってフロイトを説明してしまうという結果になりかねない。

これは本来説明すべき対象を取り違えるということとともに、トレーサビリティとして他との整合性や信用に関わる。

したがって「完璧を目指す」とは、「説明責任」として倫理の問題であることが明らかとなった。

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しかし、これらの問題があるにせよ、正しい・完成された・完璧な、というものを目指す以上、これが人の判断を正しいものとし、この合理的な判断に従って必ず人は行動するというのであれば、この主張は正当性を持つが、必ずしもそうではないというのであれば、この正当性は崩れる。

人は固有の在り方をしており、それぞれにこの固有の在り方にを支える暗黙の諸前提をもっている。

だとするならば、正しさや完成された・完璧な、というものの意義は、個々人の固有の在り方に照らしてそうであるにすぎず、ある人にとって正しさがほかの人にとっての正しさではなく、同様に完成された・完璧な、というものもそうであるにすぎない。

確かに、科学においてはこう考えることは難しいかもしれない。

しかし、私自身の問題は科学において判断されるのではなく、私自身において、すなわち、私自身の責任において判断されるものであり、少なくとも、私の抱えている暗黙の諸前提においてそうだといわれるものであり、私と切り離された事象の説明の体系によるものではない。

これらの推論における暗黙の前提は、フランス啓蒙思想に連なる独我論の系譜についての反省による。

私たちはスタンドアロンではなく、ネットワーク上の結節点に生きているのであり、
そもそも自立し独立に判断し行動する個人という仮説の上に成り立っているのではなく、時間軸上も空間軸上にもネットワークを張り巡らせて成り立っている。

つまり、私たちは形式上の合理性の上に成立しているのではなく、時空軸上のコミュニケーション的合理性の上に成り立っているのであって、これにフォーカスした合理性の上に改めて「完璧を目指す」事の目的を設定する必要がある。

以上。

起業家は、少しぐらい抜けているほうがよい。

理由は、どう考えてもそうなのだとしか言いようがない。

...

企業はやはり100年のオーダーで続いてこそ本物だと思う。
たかだか30年や40年のオーダーで成長したところで、所詮は個人のお金儲けの話で、創業者はもうかったかもしれないが、従業員はリストラされ一家が路頭に迷うような結末を迎えることは、結果として間違ったビジネスだと思う。


このように考えると、企業は100年のオーダーで継続することこそが最大の社会貢献であり、これが企業の倫理だといえる。


では、100年のオーダーで企業が存続できる要因とは何か。

定番商品をバカの一つ覚えのように飽きることなく作り続けている企業が一番堅実だと思う。


画期的な新商品を開発したところで、別の企業にまねされればそれまでのことだし、画期的な商品を開発されればそれまでのこと。


しかし、定番商品を伝統にまで昇華させた企業には未来がある。


例えば、かつをの本枯れ節を作り続けている企業などは、別にかつを節を発明したわけでもなく、製造法に多数の特許を持っているわけでもないが、海外に販路を拡大して未来永劫続いていくと思われるし、老舗の飽きることなくしょうゆを作り続ける企業は、江戸末期に100代後の安寧を図るといって多大な公共事業を行っている。


これらは、商品やブランドを開発したというより、多年事業を継続してきたことによって継承されてきた強固な人間関係を開発してきたといったほうがいい。


こういった人間関係に支えられると、安易に流行のイノベーション等には乗らないし、多分経営者自身も、そんなことを言われたとしても分からないと思う。


そして、代々継承された企業の経営者は、近代的な意味での個人ではないだろう。


すでに家は金持ちで、金銭的な不安定要素はない。だとすれば、如何にこれを次の代に引き継ぐかが、最大の課題なのだし、この過程の中で、如何に時代の要請に応えて生き残ることが課題となる。


そうすると、自分が如何に個性的でオリジナリティを発揮していくかという事より、先代や先々代が経験したような時代や環境の変化に対応しつつ、如何に変わらずに存続し続けるかということに価値が置かれる。


このような価値観の中では、ライバルは外にいるのではなく、自らの内側や先代や先々代とさかのぼって初代までの先祖ということになる。


つまり、雇用している従業員の安寧という横軸とともに、先祖という時間的縦軸が重なり合い、この結び目に今の経営者自身が位置づけられ、このことを如何に引き受けられるかどうかが、経営者としての評価になる。


確かに現代的な経営理論からは遠い話かもしれないが、そういう知恵が必要ならば、外部から引っ張って来るなり、育てればいいだけの話だ。


そんなことより、人が生きていくこと、成長していくことと一体になっているような時間を生きることが出来る企業経営の在り方というものがあるのだと思う。


もっとも、このように言うと、経営者一族はそのまま、従業員は代々そのままという関係が固定され、機会の平等を損なうという議論はもちろんある。


しかし、社会はつねに秩序を維持し、経営者ごっこをして社会を欺きながら金儲けをするというような悪徳経営者は出にくくなる。


企業の無秩序なイノベーション競争に消費者を巻き込むことなく、人々は安心して暮らすことが出来る。

そして何より、続ければ、その先にはかならず未来がある。


よく書店で100円のコーラを1000円で売る方法などという本を見かけるが、こういう詐欺商法のような情報が氾濫する社会では、よき人間関係など醸成されることはない。


このからくりが暴かれれば、買わされた人から必ず恨まれることになる。


恨まれれば必ずクレームが生まれる。クレームが生まれれば、従業員の精神が病む。精神が病めば働かなくなる。そして、いずれ企業は衰退する。


もし、100円のドリンクを1000円で売ることが出来たとしよう。だとしたら、100円の中から利益を出し、残りの900円は消費者とよき人間関係を築くために還元すればよい。


所詮はマーケティングなるもので稼いだ金なのだから、これを還元すれば、信用が生まれるのだし、信頼してもらえるはずで、ここに未来があるだろうし、未来があるからこそ、新たな挑戦を安心して行うことが出来る。


挑戦とは、無謀なことを行うのではなく、未来を確かなものにすることである。


画期的な商品やビジネスモデルや経営手法などは、一時的な栄養ドリンクのようなもので、いずれ身体を衰弱させる。


このような考え方は伝統的社会の美徳と一致するものだし、私たちの道徳における徳というものと無関係ではないどころか、多くの点で一致するはずである。


すべてがすべてに関連を持ち、一貫性を持つ世の中でありますように。

私は大学・大学院と西洋哲学を勉強しました。


哲学科に行くと、昔左翼運動をしていた人たちが教員として講義をし、先輩の中にはマルクスを読み、レーニンを読み、当時80年代だったにもかかわらず左翼運動を行っていた人たちがいました。


私の卒論も修論も前科を持った教授が指導教官でした。


しかし、ずっと疑問に思っていたことがあります。



私たちは、なぜこれほどまでに自らを否定しなければならないのか、私たちには良いところはないのか、良識や良心とは何か、ずっと頭からこの疑問と違和感は払しょくできずにいました。

今はおぼろげながら、少しだけ霧が晴れてきたように思います。


そんなことを書いてみました。

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『日本を何が何でも貶めるということだ。これが「良心的、進歩的」な立場だとするそれこそ歪んだ価値観が横たわっている。』


このことにこだわるのには理由がある。

戦後の私たちが自虐的で、なにか物事に一歩引いたような自信の無さというものの背後には「反日亡国論」という思想が災いしているように思う。



「反日亡国論」とは『「日本人」は、己が「抑圧者・犯罪民族」たる日帝本国人であることを充分自覚し、自己否定していかなくてはならない。日本は償いきれない犯罪を積み重ねてきた反革命国家であり、醜悪な恥晒し国家・民族であるので、日本を「祖国」と思うこと自体が最大の反革命思想であり、積極的に民族意識・国民意識を捨て去って「非国民」になれと説く。そして反日亡国論を全面的に受け入れて反日闘争の闘士となることで、初めて「抑圧者・犯罪民族」という「原罪」から解放されるとする。』という内容。



『「反日亡国論」は、歴史をはるかに遡って日本国の建国や日本民族による歴史そのものを否定し、その絶滅を主張した。』という恐ろしい思想で、主唱者の大森勝久自身も後に転向し、「反日亡国論」は「悪魔のような思想」と記し、他から「狂気」「あさっての方向」「もはや常識では推し量れないほどの極端な哲学」「奇怪な論理」「マイノリティ憑依」、また「異常な感性」「日本人でありながら日本を呪う思想」「反日暴力思想」と評された。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E6%97%A5%E4%BA%A1%E5%9B%BD%E8%AB%96



しかし、後に転向した彼らの意に反して、この思想は本多勝一など特定のマスメディアの人たちに継承され、現在まで脈々と生き続けている。



これを単に社会思想史の問題としてだけ取り上げるのか、戦後の私たちの精神構造として取り上げるのかは、既に論を待たないと思う。



ソビエト社会主義共和国樹立の立役者であったレーニンは、『客観的情勢を無視して目的を優先し無謀な主張や行動を行う勢力を「極左冒険主義」と呼んで批判した』。



カウンセリング理論などを学ぶと、科学主義、いわゆる原因論で、何が問題なのか、何が原因なのかと自己診断する考え方の中に自己を肯定できなくするニヒリズムがあるなどというが、それであれば、全ての先進国で自殺率は同じ程度に収まるはずだ。


確かにデュルケムが『自殺論』において言うようにアノミーが日本中に蔓延し、社会構造の変化に一定の関係性を保ちつつ比例するという事も考えられるが、だとしても過去10年間、うつ病と診断される人が100万人を超え、年間3万人以上で自殺件数が推移するというのは異常な事態であった。



思うのだが、私たちは自己を肯定してはいけないという社会的文脈の中で、無限に反省し続けなければならないという恐怖を植え付けられ、この強迫的なまでの反省をすることが良心的・進歩的である態度と教え込まれてきた結果、異常な自殺率という事になってしまったのではないかと考えている。



私たちが本当に夢を語り、理想を実現しようとするならば、私たちの内なる「反日亡国論」を乗り越え、「極左冒険主義」のような主張や行動をとらない様に注意しなければならない。



良心的である必要はない、自分の中に急いで革命を起こす必要などない。ただ、普通であろうとすること、ノーマルであろうとするだけで良い。



只、静かに私たちの中にある正気を見出していきたいものだ。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41772

怒りを如何にコントロールするか、いろんな職場を対象とした研修会で行われています。



専門的にはアンガ―マネジメントといわれるものですが、どうなんでしょうねぇ。



実は今日、あるショッピングセンタ―で、大喧嘩をしてきましてw



というのは、あるイベントを眺めていたのですが、とんでもない大男のヤンキーみたいなヤツが割り込んできて押してくるわけです。



押さないでくれよと言ったところ、その大男が、なに~!? という感じで睨み返してきたので、こちらも睨み返したところ口論となり、



アホ! ボケ! カスー!!



と言い返してやりました。



相手は喧嘩慣れしているようで、手は絶対に出してこないという感じ。



散々言い返してやりましたww



あんまり大男のヤンキーがひとのことをクソガキというので、クソガキではないわい、クソ親父やろ、と言い返したところ、連れの女性がそんなことどうでもいいでしょ!と言っていましたw



本当に怒っていたのではなく、どこか遊んでいるようなところがあって、私があまりに思いつくままいろんな表情で言葉を並べ立てるものだから、相手が途中変なやっちゃという事で笑っちゃった一幕もあり、相手をよく観察してみると、変な奴だと思いながらも気を取り直して真面目に怒ろうと決意して怒っているんですねw



周りは相当迷惑しただろうけど、本人としてはすっきりしました。




結局、家内に引っ張り出されて、帰りの車の中でぼろカスに怒られましたが、いろんなことに気が付きました。



普段、何事もなく、ストレスフリーな生活をしているつもりでも、知らず知らずのうちに自分の中には相当怒りがたまっているという事。



怒りという感情は、多くの場合、人に対するものであるという事と、極めて具体的なものであるという事。



だとすると、人に対して怒っている、この具体的な感情というものは、人に対してぶつけてこそ、解消するものなのではないか。



このように考えると、出来るだけ周りに迷惑を掛けない程度に、誰かと喧嘩するという事は、意義があることのように思います。



喧嘩をすることで解消するものがあるという事は認めたほうがいい。



自分は誰かに対して強い怒りを感じており、今、自分は怒りを感じているという事は認めたほうがいい。



認めた上で、さて、どうするかですが、この怒りは外に向けたほうがいいと思います。



怒りの感情は、外に対象があるわけで、これを内面化して自分を攻撃するようになると、自分を壊してしまい、怒りの感情の逃げ場がなくなってしまいます。



この怒りをぶつける対象が仲間内で弱いものだったり、なにかマイノリティ性を持った人だったりすると、いじめになりますが、やはり誰かにぶつけたほうがいいんだろうなぁと思います。



もしくは、そういう機会を疑似的にでも作り出すという事は必要かもしれませんね。



そういうマネジメントは必要だと思いますが、ただごまかしたり、うまく散らそうとするような感じだと、結局は精神を病んでしまうような感じになると思います。



サラリーマンが社内で怒りまくって喧嘩など始めると、降格や配置転換などいろんな目に合いますし、相手が悪かろうがどうだろうが、社内的な力学で処罰されてしまうので、結果として社内では御法度です。



しかし、サラリーマンの人たちは、こういうことに対して、本当にストレスを抱えているでしょうし、狭くて人口密度も高い社内のフロアで仕事をするので、それだけでもストレスフルだし、大変だと思います。


しかし、だからこそ、どこかで上手に喧嘩したり、怒りを外に放つような仕組みを持つというのは大切なことですし、多分、これが出来てないと、精神が病むと思います。



私がメンタルヘルス研修等で、アンガ―マネジメントについて話をするとすれば、こんなことを話すでしょうね。



後藤新平の都市計画について取り上げたNHK『英雄たちの選択』を見ていたら、やたらと「国家100年の計」という言葉が繰り返し出てきた。


大正時代の関東大震災の帝都復興計画を立案実行する後藤は、同じ苦しみを自分たちの子孫に味あわせないという事をスローガンとして、子孫に誇れるまちづくりをしようとする。

兎に角スケールの大きい話で、大正時代にクルマ社会の到来を見越して40メートル以上の幅の道路を敷設するという発想は、今で考えれば、いずれ人類は宇宙に飛び出すのだから、今から移住用のロケットを開発しようというくらい突拍子もない発想に思える。

しかし、100年というスケール感は、そういうものなのだな。

とはいえ、この共同体への帰属意識というものと、公共性というものはまた少し違っていて、この世の中と自分との関係性という抽象的な関わりが問題となり、これは教育とか情報とかそういうことと深いかかわりが出てくる。

何か事が起きた際、人は自分の利害というものを尺度として行動するのだが、これはたかだか1年や2年、せいぜい30年かそこらのスケールでしかない。

しかし、100年というスケールで考えていくと、自分の子や孫のことを考えるし、その子や孫が共に生きていくための隣近所や助け合うであろう仲間の存在にまで思いがめぐらされる。


当然、子孫というのは増えるものなので、増えた子孫の生きていく社会というのは、今自分が生きている社会より大きなものを想像しなければならない。

ここで発想されるものは、やはりスケールの大きいものになる。


どうも後藤はそんな発想をしていたらしい。

共同体への帰属意識というものを公共性に替えていくという事は、どうしても100年以上の大きな時間のスケールで考えなければならないのだし、個人の存在や権利というものは、この公共性の裏付けがあってこそ成り立つのではないか。


もっとも、この公共性という概念は、時間概念が含まれておらず、やはり少し抽象的なので、私は人の生態系という概念で考えた方がいいと思っている。

後藤は医者でもあったので、そんな発想もしていたのではないかと想像してみる。


血の通った都市計画、都市を未来に向けて生き続ける身体と見立てていたのかもしれない


アドラーは、全体論を前提としており、個人を全体としてとらえる。



私という有機体という考えも既にこの前提から外れたことなるし、意識だとか無意識だとかいう区分さえ、私というものを分割し、還元していく、機械論的観念論=還元主義という事になるのだろうか。

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だとすると、私というものは、私として生きられている、この具体的な私の全体であって、私の人生に向かっての態度が問題とされるという理解でいいだろうか。



ところで、アドラーは、私たちは既に他者の存在を前提としており、他者の存在を抜きにして私ではありえないと語り、故にすべての悩みは対人関係の悩みであると考える。



私たちが一切の悩みを抱えずに存在できるとしたならば、この宇宙で一人で生まれ、他者の存在を知らずに一人で生きていった場合のみだという。



この有り得ない前提に立った場合にのみ私たちは一切の悩みを抱えずに存在することが出来るという事であって、論理的には有り得ない前提に立つ限り何を言ってもいいことになるのだから、私たちにとっての悩みとはすべて対人関係における悩みだということが出来る。



私たちは、他者の存在において自分を知るのだし、他者の在り方を手掛かりとしながら、私というものの有り様を了解している。



では、他者とは何か。



私たちは具体的な他者を了解することが出来るのはなぜなのかと考えた場合、既に私の中に他者というものが内包されているのではないかと思えてくる。



具体的には、私の身体という他者、私が生まれてきた瞬間に既に抱え込んでいる他者としての身体との対話を通じて、私というものが自意識として浮かび上がってくるのではないかと考える。



生まれたばかりの赤ちゃんは、無秩序に身体をばたつかせているが、やがて秩序立った動きへと洗練されてきて、やがて具体的な行動となってくる。



これは、私たちの中に身体を動かすという生得的な形式が備わっていないという事であって、私たちは身体というものをとにかくむやみに動かしてみて、この存在を習得していかなければならないという事だ。



これは、私たちの身体が、私自身としてではなく、私にとって身近だけれども、異なるものとして在るという事ではないだろうか。

だとすると、私たちは、私の身体を伴って、私という全体へと統合していくのであって、これは同時に私が私であるという自意識を獲得することでもある。



このように考えていくと、この宇宙でまったく一人で生まれ、人としての他者の存在を知らずに生きていったとしても、身体をもっている私は、身体との対話の中から、自意識を獲得するのではないだろうか。



アドラーは人の理性的な思惟と行動を前提としている様に見えるのだが、身体は私の意思や理性とはどこか関係なく、自立しており、この自律性があるが故に、これを基盤として私たちは自由に考え、行動することが出来るという前提には立っていないように見える。



だとしたら、私たちはこの点において、理性による非理性の克服はあり得るのかという、近代の重要な課題に直面するのだし、この問いかけの有無が科学と非科学とを分ける試金石となるのだと思う。



アドラーには、このような視点が無かったのではないだろうか。



アドラー自身は、プラグマティストで、実際の生活の困難を払しょく出来、自分らしく行き、自らのタスクを貫徹できことを目的としていたのだから、このような哲学的なことは問題にならなかっただろうし、もしこれが問題だとしても、これを問題だと取り上げる人に解決してもらえれば良かったと考えているかもしれない。



しかし、アドラー心理学がコーチングに応用発展される過程において、身体性という概念が導入されるか否かが大きなテーマだったのだろう。



私たちの身体は、具体的な世界と強く結びついており、世界と出会う場そのものであると考えた場合、私たちには身体的な記憶というものがあり、これを再現することで、追体験のような臨場感をもって過去や未来を行き来することが出来ると考えられるのではないだろうか。



これはアドラーが言う目的論に深く合致した考えで、身体的自立性の元で形成されうる記憶というのは、パターンとして未来に適応されることで時間的制約を超えるのだと現時点では考えている。



目的論とは、未来の記憶を形成することでもある。



重要なポイントだと思ったので、覚書として…。