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デザインは筋肉だ

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創作意欲の根源が、行き場がなくなって心の底に溜まり泥塊のようになった感情だったとしたら、その塊から作るやり方を忘れていたり、その塊に触る勢いがなくなっていたり。

アートは狂気である。狂気という言葉には恐ろしい印象があるが、言い換えれば「一つのことしか考えられない」こと。偏り。天秤にかけ終えた発想。それが善・悪どちらに傾いていても「思い込んだ」人の発想は、狂気の沙汰。狂気じみた作品を目の当たりにすると、日々、何かしら天秤にかけて洗濯して生きている人間の目には、その作品が「正しく」写る。なぜなら「そう思い込んで描いている」からだ。

ゴッホにはひまわりの色やエネルギーの方向がそう見えいているし、ピカソは戦争の悲惨さは写実的ではなくキュビスム・多数の視点から描いた方が伝わると思ったから……とも考えられるが、個人的には写実的では現世後世限らず「印象に残りづらい」からだと思う。

「どうしてもそう考えてしまう」という世間と乖離した発想の持ち主に芸術家が多いのは、「わかってほしい」からだと思って仕方がない。
社会とのつながりどうこうではない、純粋に自分をわかってほしいというその一点のみで、その表現として絵画や立体作品があり、制作意欲は「自分を伝えたい」という欲望のみ。作品が売れる=認められているということ。

しかし『高価な絵』として取引されるうちに、(本当に自分は理解さられているのか)とまた思い始める。ネームバリューで評論家の批評という鑑定書で、絵の本質は届いているのだろうか。私のやりたかったことは、伝えたかったこととは何か。

創作意欲は、言葉に出せなかったたくさんの捨てられた・諦めた・進行中の「伝えたいこと」の中にある。それを形にする動機も時間も作り方も見つけたくない。何も作れない。

「伝えたいこと」などないのかもしれない。
多様性が他者を認めることは、君は君でいい!ということ。
極端な話、個人の「伝えたいこと」などどうでもいいのだ。
無条件に「多様性」という言葉で括られて、自動的に認証。
他者の生き方を拒否すれば、知らない人間にSNSで袋叩き。

コミュニケーションが減り、人間の表現活動が封じられる。
「多様性」という言葉で相互理解の時間を省略=主張し合う機会を減らす、「伝えたい」を減らす。それでは「創作意欲」は湧かない。
何かを否定し切らなければ、心を動かすアート作品は生まれない。それが苦痛に感じるなら、芸術作品の制作には向いていない。だから「アートは自由だ」で良いのだ。

「芸術は爆発だ」で良いのだ。なんて素敵な言葉だろうか。