愛情という言葉があります。

 子供の非行=愛情不足=母親や父親が子供と一緒にいる時間がないからだ。

 とおっしゃる方がいらっしゃいますが、本当にそうなのでしょうか?父親や母親が子供をかまっていても、また両親がそろっていても子供が非行に走ることはよくあります。両親がいなくても立派に育つ子は育ちます。

 愛情は一緒にいる時間ではなく、短時間でもどれだけ濃厚な関係を築けるかが重要だと私は考えます。

 一緒にいなければ育児放棄=愛情不足。

 そういった考えが子供の自立を妨げ、自分では何も出来ない子供に育ててしまうのではないでしょうか?

 私は父親や母親が子供に不自由させないために一生懸命働いている。この行動そのものが愛情だと思っています。

 一昔前は家にお金がなかった場合、子供を幼少期から男の子は奉公に出させる(口減らし)なんてことはあたりまえでしたし、働き手にならない女の子は間引き(子殺し)や遊郭に売り飛ばされることは日常茶飯事でした。自分たちの生活を守るために収入を稼げる人間を優先し、稼げない子供が犠牲になることはどの国でも普通にありました。(食べ物がないと一家全員が餓死してしまいます。)

※ 貧困層での子捨て・子殺し(私生児、障害者、穀潰しなど)、姥捨は一般的でした。神話の中でも子殺しは当たり前のように行われています。私も発達障害者なので一昔前であれば間引きされている可能性が充分にあります。


 今と昔では考え方も随分違っていて、昔は「子供が親のために働くものだ。一家のために犠牲になるものだ。」という考え方でした。そういった歴史を知っていると、子供が不自由しないために親が働きに出て、住む家と食べるもの、勉強までさせてもらっているということ自体が「愛情」そのものではないでしょうか?

 貧困国では食べ物も、寝る場所もなく、小さいころから戦争に借り出されている子供たちもたくさんいます。

 安全で安心の国に何不自由なく暮らせている。=「豊かで幸せ」なはずなのに。

 私は息子に言います。

 「愛情がない」というのであれば、自分で稼いで、自分で家事・料理すべてやってみろ。他の国では自分の家族を守るために3歳から勉強もせずに働きに出ている子供たちだってたくさんいるんだ。」と。

 そんな贅沢な生活をしているのに手伝いすらしないほうが「愛情がない。」んだろう?じゃあ、逆に聞くけれど、M(息子の名前)は私に愛情があるのか?私がこれだけ一生懸命やっているのにまったく理解してくれないというのは、それは私に愛情があるのか?本当に愛情があるのであればいろいろ協力してくれるはずだろう?じゃあ、そもそも愛情って何なんだ?!と。

 息子は一言も言い返せません。

 私は子供のために一生懸命働いているお父さん、お母さんすべてに言いたい。

 愛情とは誰かを思いやる心です。ですので、子供のために頑張っている人すべてに 「あなたがたは十分に子供を愛しています。愛情を持っています。」と。

 「子供に不自由させたくない。きちんと育てないといけない。養わなければならない。」という気持ちそのものが愛情であり、そういった心を持っている日本中のお父さん、お母さん、すべての人が子供に愛情を持っていると思っています。




 上を見てもきりがない。下を見てもきりがない。
 こういった生活をしていない、させてないことそのものが愛情ではないでしょうか?(そういった意味では日本人全員が守られているってことですね。ホームレスでもよほどのことがないと餓死するということはないですから。)