ECD
http://www.jetsetrecords.net/jp/columns/interview/10
失点 in the park/ECD

完全なるライマー@マクロスォタメモです
比較的分かりやすい記事を白鍵。このてのゾーン把握、携帯からのご観覧は深長過ぎるので酔注意!!
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'81-'82
79 年にリリースされたSugerhill Gang 「Rapper's Delight」の人気が日本のディスコ/クラブでまだまだ続いていた(無論、本国でも世界中でも)NYローカルのダンス・レコードだった本作は息の長いヒット曲でじわじわと浸透を続けていた。そして、ここから(アンダーグラウンドなヒップホップ・コミュニティの外側)でのヒップホップの全ては始まって行く。 ECDがジョン・ライドンのインタヴューでグランドマスター・フラッシュの名前を知り、ヒップホップを知る。 スネークマン・ショウ「咲坂と桃内のごきげんいかが、1、2、3」/ 山田邦子「邦子のかわい子ブリっ子~バスガイド編」など日本でもラップを取り入れたノベルティ・レコードがリリースされていくようになった。
'83
10月映画『ワイルド・スタイル』の公開プロモーションのために総勢30人以上というキャストが来日した。各地のディスコに都内のデパートの“ニューヨーク展”のために店頭などでCold Crush Bros、Fab 5 Fredie、Grand Mixer DST、Double Trouble、そしてRock Steady Crewなどなどがパフォーマンスをした。当時のNo.1“スクラッチ”DJであるDSTによる日本のディスコ~音楽関係者へのスクラッチ講座的なことも開かれたという。
またヒップホップはなによりもブレイク・ダンスが一般的な広がりを見せて行く。既に当時CMにブレイク・ダンス的な振り付けは取り入れられた。
'84
原宿の歩行者天国では段ボールを敷いてのブレイク・ダンサー達が多くなり、そうしたクルーの中に『ワイルド・スタイル』を観て刺激を受け活動を始めたというDJ Krush、MC BellそしてCrazy Aなどがいた。
この頃既に日本でも藤原ヒロシ、モンチ田中など幾人かのDJはミックス、スクラッチなどを試みていたらしいが本当に少数だった。また、大阪のディスコなどでは天宮志狼などがマイクを握ってたというが、そうした活動も本当に少数。
'85
桑原茂一プロデュース、ミックス・レコード、ハード・コア・ボーイズ名義による「俺ぁ東京さ行くだ」が発売禁止になる。
角松敏生のアルバム「Gold Digger」にGrand Mixer DSTがスクラッチDJとして参加。
ジョージ・ヒコがTommy Boyから12インチ・シングルをリリース。
6月にAfrika Bambaataaが来日。しかし、ファンク・バンド編成。
いとうせいこうの同名雑誌連載の音楽化、アルバム『業界くん物語』で日本語によるラップが試みられる。
DJ集団M.I.D.がモンチ田中、マイケルといったDJを中心に作られる。
'86
渋谷にクラブ“HIP HOP”がオープン。その頃、幾つもの都内のクラブでヒップホップは勿論プレイされていたが、毎日ヒップホップという場所はこれが初めて。DJ陣はDJ ユタカ、マーヴィン、そしてデフ・Dなどなど。
ヴェテラン・ミュージシャン近田春夫がわざわざPresident BPMと名乗り、ラッパーとして活動を開始。また、ヒップホップ専門レーベル“BPM”を設立。第1弾はPresident BPMによる「Masscomunication Breakdown」。
Run DMC来日。彼等のステージを観てそれ以前も勿論ヒップホップに興味を持っていたECDがラッパーになることを決意。 アディダス大流行。
M.I.D.がクラブでのDJ以外にラジオでのミックス番組の先駆的な“24クラブ”をFMヨコハマで始めたり、その活動が活発に。
'87
高樹町のクラブBubblin' Dubなどで回していたDJ小林径、現Cosa Nostraの佐々木潤などを中心にラッパー、DJ、ダンサーという構成のFunk Master Go-Goが活動開始。早速4月に来日したロック・バンドFishboneのフロント・アクトをつとめる。
コメディアン片岡鶴太郎がホストをつとめる番組でヒップホップで天気予報をするチームがレギュラーで登場。ラッパーは元アフリカ、その後近田春夫のビブラストーンのフロントマンとなるDr. Tommy。DJはマーヴィン。
巨大ディスコ、トゥーリアがオープン。
それまでもヒップホップ的なアプローチを取り入れていたミュージシャン中西俊夫がグループMelonとは別に、DJとラッパーによるヒップホップユニットTycoon Tosh & Terminater Troops(メンバーは他にK.U.D.O.そしてキング・カット・カン)として活動を開始。
ヴェスタックスが主催するDJ コンテストにおいてECDが優勝。
'88
高木完、藤原ヒロシ、工藤昌之、そして屋敷豪太といったメンバーでヒップホップ~ダンス・ミュージックのレーベル、メジャー・フォースMajor Forceが設立された。Tiny PanxからDJ Red Alertまでヴァラエティに富むライン・アップ。12インチ・シングル中心にリリースを開始するが、CDが主要な市場で商業的には大成功とは言えなかった。しかし、海外での注目度は大変高く現在ではメジャー・フォースのレコードはコレクターズ・アイテムである。
メジャー・フォース設立と同時に11月第1回目のDJ Underground Contestが開催される。このコンテストでは優勝者にKrush、特別賞にスチャダラパー、またレゲエDJのチャッピー、B-Fresh 3、Gakuなどが注目を浴び、Rhymesterの前身的なグループも参加していた。
'89
それまでは本当に数年に1回程度だったヒップホップ・アーティストがこの年数多く来日。Jungle Brothers、45King、De La Soul、Public Enemy……などなど。前2つの組の客入りはまばらだったりもしたが、ヒップホップを自分達で作ろうとしていたこの国のアーティスト達に大きな影響を与えた。
ECDがプロモートする完全ヒップホップ志向のコンテストCheck Your Mikeが開始された。第1回目の優勝者はZingi。
いとうせいこうがヤン富田と組んでアルバム『Mess/Age』を発表。ヒップホップ的な手法を使ってのオリジナルな表現。
後のEast EndのYoggyとGucci Gのユニット、Puzzle Jam Rockersのアルバムが自主制作でリリースされる。
関西でDJ TankoとKensawからなるLow Damageが活動開始。
Krush Posse、dj honda、East End、レゲエDJのBoy Kenなどによるパーティ、ピース・ボールが始まる。
'90
スチャダラパーのような“柔らかい”ヒップホップに注目が集まりやすい中、Be Bop CrewのGucci Gを中心に自主制作でアルバム『Yellow Rap Culture』が発表される。参加アーティストはKrush Posse、Home Boyz、そして当時本当に珍しかったHoney Bomb。
ECDのファースト・シングルであり、日本の先駆的なヒップホップ・レゲエの一つでもある「Picocurie」がメジャーフォースからリリースされた。 ニュージャック・スウィングの超人気者Bobby Brown来日でダンス熱がブレイク・ダンス流行の時以来高まっていく。
Dohzi T、DJ Baseなど6人組のグループZingiを中心としたイベントYoung MC's In Townが始まる。
DJ Dog Holiday(須永辰緒)のレーベルRhythmが設立される。この後彼自身のアルバムの他、Gas Boys、You The Rock & DJ Benなどの作品がリリースされた。DJ Dog Holidayはまたその後新宿ミロス・ガレージでClub of Steelというパーティを始める。彼はECD & DJ Dog Holidayという形でそれに参加していた。そこではコンテストもあり、Muroなども出ている。
スチャダラパーがトンペイズ、カートゥンズ、それにTokyo No.1 Soul Setなどといったグループと共に形成して行くLB(Little Bird)Nationが形作られる。
NYで開かれているヒップホップ中心のコンベンション、ニューミュージック・セミナーにはメジャー・フォースのアクト中心(高木完、SDP、チャッピー等々)に日本人アーティストが参加していた。
'91
高木完、SDPなどを擁したプロダクション、スクールが業務開始。趣味ではなくきちんとしたビジネスとしてヒップホップをと当初から考えていた。
SDPがメジャー・デビュー。
ECD、SDP、高木完などによる全国ツアーHomebaseが行われた。 MCハマーが来日しTVでは「たけしの元気が出るテレビ」で“ダンス甲子園”というコーナーも始まり、ダンス熱は本当に一般化。Bubble Gum Bros.「ウォント・ビー・ロング」が大ヒットしたのもこの年。
'92
下北沢のクラブZOOでライブ中心のパーティChain Gang~Slam Dunk Discoが開始される。参加したメンバーは後まで考えるとECD、Krush Posse、Boy Ken、SDP、You The Rock、Rhymester、Mellow Yellowまで。
当時JG'sというDJ~リミックス・チームにいたdj hondaがDJ Battle World Supremacyで準優勝。
Krush Posseは結局アルバムをリリースしないまま解散状態にあったが、ラッパーのMuroとDJ、トラック・メイカーのGo、Beatkicksの TwigyなどによってMicrophone Pagerが活動開始。“コマーシャル・ラップ”すなわちセル・アウトを批判するハード・コアな立場を表明。
ECDのファースト・アルバム『ECD』がリリースされる。当たり前の日本語でのライミングによる日本の現実を切り取った彼の視線がヒップホップ・ゲームの体内ブレイク・ビーツと交差する最初の表明。
川崎クラブ・チッタのイベントHIP HOP Super Powerなどの大きな会場でのパーティも当たり前になり、ダンス・ミュージック~ヒップホップのコンピレーションの数は増えて来る。
'93
Run DMC、Ice Cube、Naughty By Natureなどが続々来日した。
Rhymesterの最初のアルバム『俺に言わせりゃ』の中のいわゆるポッセ・カット “Funky Grammer”に参加したアーティストでFunky Grammer Unitが形作られる。Rhymester、East End、Mellow Yellow……。同じ名前のイベントも始まった。とはいえ、クラブでのヒップホップのパーティの人気は決して高くはなかった。むしろ、この時期から「DA. YO. NE.」などのヒットが出るまで日本のヒップホップ・シーンは出口を捜し続けることになる。
アシッド・ジャズ・バンドBrand New Heaviesなどに代表されるラッパーと異なるジャンルのミュージシャンとの異種格闘技的セッションが注目を集める。日本では高木完の『Heavy Duty VOL.1』そしてCocobatによる『玄人ハダシ』。後者にはMicrophone Pager、Kimidoriなどが参加。
ECDの2枚目のアルバムである『Walk This Way』がリリースされる。それまで日本の現実=この国のストリートを写し出すヒップホップが数少なかった当時このアルバムの踏み出した一歩は大きい。
'94
ラッパー不在のままインストゥルメンタル・アルバムをDJ Krushがリリース。それが英国のいわゆるトリップ・ホップ流行と結び付き、彼は英国のレーベルMo' Waxからアルバム『Strictly Turntablaized』をリリースすることになる。この後、彼のヨーロッパでの人気/支持は不動のものに。
SDP、日常的にも交流のある小沢健二とのコラボレーションで彼等なりにヒップホップ・ソウル的センスで遊んだ「今夜はBoogie Back」を発表。大ヒット。
East Endも以前から交流のあった東京パフォーマンス・ドールの市井由理とのコラボレーションで「DA. YO. NE.」をリリース。作者の1人はRhymesterのMummy D。後に大ヒット。この2曲のヒットは日本のヒップホップの“状況”に大きな影響を与えただろう。 西麻布のクラブ“Zoa”でYou The RockがプロモートもしていたBlack Monday開始。現在も活動している多くのアーティストが顔を出していたこのパーティはアンダーグラウンドながらオープン・マイクな自由な雰囲気。
Rock Steady Crew Japanが活動開始。
謎のラッパーmc.A.T.が「ボンバヘッド」をヒットさせ“Jラップ”という言葉を提唱。 ヒップホップのリリースは幾つかのヒット作が生まれたことにより急増して行く傾向。 Microphone Pagerの「改正開始」のリミックスがTommy Boyが組んだインターナショナル・ヒップホップ・コンピレーション『Planet Rap』に収められ好評を博す。 ECDがファイル・レコードからカッティング・エッジに移籍。
'95
プロデューサーに高木完を迎え、渋谷のクラブCaveともリンクしたVortex Recordsが生まれた。最初にリリースされたのはDJ Krushの元で活動して来たDJ YasとRino、GamaによるLamp Eyeの「下剋上」。
NY在住だった日本人によるヒップホップ・グループBuddha Brandが自主制作「Funky Methodist/Illson」をリリース。
ECDがカッティング・エッジ移籍第一弾『ホームシック』とファースト・シングル「Do The Boogie Back」をリリースする。後者は四街道Natureなどをフィーチャーしており、小沢健二とSDPによるメガ・ヒット「今夜はBoogie Back」へのアンサー・ソングというはなはだヒップホップ的な試み。一方アルバム『ホームシック』はヒップホップのダサイ商業化にはっきりとアンチを唱えた「マス対コア」(TwigyとYou The Rockをフィーチャー)したり、ヒップホップな日常を描いた宣言「ミニ・メディア」などが収められていた。
Rhymesterが2枚目のアルバムをリリース。日本語によるヒップホップの一つの指標に。
Black Mondayにいた連中が多く関わるKaminariがシーンに大きな影響を与える。中心メンバーはYou The Rock、Twigy、Rino、Gama、G.K.Maryan、そしてDJ Patrick…彼等のパーティ“亜熱帯雨林”は異常な熱気。
ECD、日本初のヒップホップ・ライヴ盤『ライヴ・アット・スリッツ』をリリース。文字通り下北沢のクラブ“スリッツ”で行われたもの。なお、ボーナス曲として「サマー・マッドネス」がスタジオ録音ヴァージョンで付け加えられていたのも話題。
You The Rockが、マスター・オブ・セレモニーをつとめるTokyo FMでのヒップホップ番組“Night Flight”が12月から月1回で始まる。同番組は現在は終了。
East Endと市井由理がNHK紅白歌合戦に出場。
ECDがファイル・レコードからカッティング・エッジに移籍。
King Giddraアルバム『空からの力』がリリースされる。ストリート・スマッシュ「大掃除」などを生む。 ヒップホップ古典ムーヴィー『ワイルド・スタイル』が13年振りに再上映。
'96
渋谷のクラブ・クアトロで行われたECDプレゼンツ“Check Your Mike”は満員状態。
文字通りのNext Level Recording登場。
Buddha Brandがリリースしたメジャー・デビュー盤から「人間発電所」がクラブでヘヴィ・ローテーション。
また、昨年の萩谷雄一氏がまとめた『悪名』に続いた『続・悪名』、『The Best Of Japanese Hip Hop』などコンピレーション数はまた飛躍的に増えている。
Kaminariのイベント、場所を西麻布Yellowから川崎クラブ・チッタに移し、タイトルは“鬼だまり”に。
SDP、トム・コインによるマスタリングをNYで行ったアルバム『偶然のアルバム』をリリース。
日比谷野外音楽堂でECDプレゼンツの大規模なパーティ“さんピンCAMP”が7月7日に開催された。また、この模様はライヴ・ヴィデオとしても発売され、サウンド・トラックという形でCDもリリースされた。
Kaminariの象徴的な『証言』がリリース。
ヒップホップのパーティは渋谷を中心に数え切れないほどに。
DJ Benのレーベル“Spellbound”がNYから登場。
Muro、DJ Kenseiなどの手によるミックス・テープの流通も当たり前に。
ヒップホップ居酒屋“竜宮”オープン。ヒップホップ業界人のたまり場所の一つ。
大晦日に“鬼だまり”が行われた。満員御礼。
Soul Screamが関わったブランド“Word”、Muroのプロデュースする“Savage”などヒップホップ・アーティスト自身によるギア関連も充実。 新しいヒップホップ・レーベルAdjustmentが設立された。まずはRadical Freaksなどがリリース。
RhymesterとBuckwild、ZeebraとPremireといったコラボレーション作がリリース。
今後目が離せない集団Urbarian Gym、Total Output Productionが活動を活性化。まずはストリート・フレイヴァ・プレゼンツ「Double Impact EP」が(DJ Kensei、BIG-Oを片面に)登場。
ECDからの最新報告『ビッグ・ユース』がリリースされた。
(オフィシャルウェブサイトより・2006年7月現在)
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