nothing と the nothing | Text or Nothing

nothing と the nothing

昨日の続き。

今日は一日家にいて、夕方イヌの散歩に出かけて戻ってきてから、庭で雪だるまと雪うさぎを作った。こしらえながらまた Wallace Stevens"The Snow Man" について、より具体的には nothing と the nothing の間にある僅かな差について、思いを巡らした。

Marguerite Durasマルグリット・デュラス)の La Vie matérielle (1987)(邦題『愛と死、そして生活』)に次のようなパッセージがある。

« Je voudrais écrire un livre, comme j’écris en ce moment, comme je vous parle en ce moment. C’est à peine si je sens que les mots sortent de moi. En apparence rien n’est dit que le rien qu’il y a dans toutes les paroles. » (La Vie matérielle, pp.138-139)

「本を書きたいと思う。今こうして書いているように。今こうして話しているように。このわたしから語句が出てくるのを感じとるとしても、かろうじてのことだ。一見したところ、何も言われはしない。あらゆる言葉のなかにある無をべつにして

ここでデュラスは rien と le rien をそれこそかろうじて区別し、語句 mots のままでは何も意味を持たないが 言葉(パロール)paroles として何かをかろうじて内包しうる、そんな本を書きたいと述べる。言葉は単語レベルで見れば何も意味を持たないが、一瞬一瞬発されるたびにかろうじて表出しうるような、そんなパロールのことだろうか。専門家の話を聞いてみたいところだ。

デュラスらしさが張りつめていて、それととともに滲み出てくる感がある。読んでいて息が止まりそうで、それでいて心地よいような、なんとも不思議な一節であるように思う。

Stevens は1920年代のアメリカ。
Duras は1980年代のフランス。

時代も言語も異なり比較することはやや手荒い気もする。だが rien と le rien または nothing と the nothing の間のわずかな差異を通じて私の頭の中で2人が結びついた。

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ところで… rien や nothing を言葉に表そうとした作家は多い。ただし、そうした作家の書法をめぐって「無」ばかりを強調することは非常に怠慢かつ危険である。かつてこの私がそうだった。「この作家は無を書いている、言い表しようの無い無を言葉に表しているのだ。」そうコメントした途端、すべては言い尽くされるどころか、むしろ放棄されてしまう。もっともっとおもしろく、深いはずなのに、無という一言ですべてが無に帰すきらいがある。

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