2025年JAF全日本ダートトライアル選手権第8戦(最終戦)
「ダートトライアル in タカタ」
『旅の途中』 その3
タカタ~新宿
12 丹生神社(たんじょうじんじゃ 広島県世羅町)
タカタが終わって、翌朝は道の駅世羅を出発、丹生神社に向かいました。
神の橋
拝殿兼神楽殿
折から秋の例大祭が行われており、急遽飛入り参加しました。
例大祭は、神社において最も重要な祭りの一つで、
毎年10月中旬神様への感謝と敬意を表す行事です。
この祭りは、神社の神々を祝うために開催され、
地域の人々が一同に会し、健康や安泰を祈願します。
社殿が2つあり、右に高野明神、左に丹生明神が祀られています。
両社を合わせて「丹生神社」と称されています。
高野明神
丹生明神
巫女の舞
毎年4人で踊るのですが、今年は2人。
最後に記念撮影
神輿は担ぎ手が少なくなったので、軽トラックで街を練り歩きます。
13 鞆の浦(とものうら 広島県福山市)
古くから「潮待ちの港」として栄えたところで、
古い土壁のつづく路地や情緒ある家並、昔の土蔵などがそのまま残っています。
常夜燈
鞆の浦のシンボル
龍馬ゆかりの地「鞆の浦」
いろは丸展示館
坂本龍馬率いる海援隊が、伊予大洲藩から借用し鞆沖で沈んだいろは丸の足跡を証する資料館
桝屋清右衛門宅(ますやせいえもん)
いろは丸事件の際、坂本龍馬と海援隊士が宿泊したのが龍馬の隠れ部屋。
現代に蘇る「平成いろは丸」
紀州藩の明光丸と衝突し、今も宇治島沖の海底に沈んでいるいろは丸。
そのいろは丸が、2010年(平成22年)、鞆の浦~仙酔島を運航する、
市営渡船「平成いろは丸」として蘇りました。
平成いろは丸(定員99人、全長22.3メートル、総トン数19トン)
龍馬が乗ったいろは丸の約4割の大きさで再現されており、鞆の浦と仙酔島を結んでいます。
大伴旅人 むろの木歌碑
上)「 吾妹子之見師鞆浦之天木香樹者常世有跡見之人曽奈吉」
(吾妹子が見し鞆の浦のむろの木はとこ世にあれど見し人ぞなき)
下)「鞆の浦の磯のむろのき見むごとに相見し妹は忘らえめやも」
天平2年(730年)大伴旅人が太宰府の役人の任期を終え、
都へ帰る途中、鞆の浦へ立ち寄った時の歌で、
亡き妻をしのぶ気持ちを歌に乗せています。
むろの木
鞆城
鞆城は村上水軍が築城し毛利氏によって整備され、
1573年(元亀4年)織田信長に京都を追われた足利義昭が
1576年(天正4年)、亡命臨時政府機関・鞆幕府を開いた地。
室町幕府は鞆に興り、鞆に滅びました。
鞆の浦はこの地は、かつて足利尊氏が新田義貞討伐の院宣を受けた地で、
足利氏にとっては由緒正しい場所でしたが、
同時に足利室町幕府滅亡(1588年(天正16年))の地でもあります。
鞆の浦と言ったら「鯛」が有名。昼時は店の前は行列。
時間もないのでメニューだけ見て、たい焼きで済ませました。
14 福山城(日本百名城 広島県福山市)
西国鎮衛の拠点として元和8年(1622)徳川家康の従兄弟・水野勝成が福山十万石の領主となって築城。
天守閣は昭和41年(1966)の再建で、天守北側が鉄板張り(2022年改修)としていた点も大きな特徴。
この鉄板は大砲の攻撃に備えるために張られた物で、他の城では見られない設備です。
丁度土日月の3日間「キッチンカーフェスティバル」が開催されており、
天守前広場はキッチンカーと来場者で込み合っていました。
城の南の真下は山陽新幹線福山駅。
伏見櫓
左)伏見櫓 右)湯殿
左)月見櫓 右)鏡櫓
鏡櫓
15 帰路
10月13日(月・祝)20時倉敷から夜行バス。翌朝7時新宿に到着。
700㎞11時間の長旅でしたが、バスは寝たままでいいので、自分で運転するよりはるかに楽です。
三木SA
バスタ新宿
小田急線に乗り替えて最寄り駅まで40分。旅はもう少し続きます。
≪完≫


















































