2025年JAF全日本ダートトライアル選手権第8戦(最終戦)

「ダートトライアル in タカタ」

 

『旅の途中』 その2

 

 

解散後再びJRで倉敷駅へ。

21時東かがわ市在住のCMSC本部クラブ員田中昭男さんと合流。

田中さんの車で一路津山へ。途中で車中泊。

 

倉敷からタカタへのルート

 

 

6 津山城(日本百名城 岡山県津山市)

 

1582年本能寺の変で討死した森蘭丸の弟、森忠政が1616年に築城しました。

姫路城、松山城と並ぶ「日本三大平山城」。

平山城とは、小山や丘陵部と平地を利用して造られた城で、

山城と平城の性質を併せ持つ城のこと。

津山城の天守や大半の櫓は明治1873年の廃城令で全て失われ、

現在残る建造物は復元された「備中櫓」のみです。

残された壮麗な石垣が今も往時の姿を伝えています

 

 

 

 

森忠政公

 

備中櫓

 

 

 

天守台

 

 

備中櫓内の売店にて

 

御朱印

森氏の家紋「鶴の丸」と

森氏の後に津山藩主となった越前松平氏の家紋「三つ葉葵」

の両方がデザインされています。

 

 

靴を脱ぐときの腰掛椅子。三つ葉葵にお尻を載せるのは恐れ多いです。

 

松尾芭蕉句碑を発見(城内)

「金つかぬ 里は何をか 春のくれ」

句意:夕暮に寺の鐘もつかれないこの里では、里人は何を頼りに春の夕暮を過ごすのであろう。

 

 

 

棟方志功歌碑(津山市文化センター敷地内)

左(表) 「おくられて 来しを身ながら おくらるる人の悲しさ かえりみもせず」

右(裏) 「津山なる 城跡づたい さまよえど かのひとまさず 雲流れつつ」

明治36(1903)年に青森に生まれた志功は

戦後(昭和23年)たびたび津山を訪れて、津山を絶賛しています。

  

 

 

西東三鬼句碑(花冷え碑 津山市文化センター敷地内) 

津山市出身の俳人です。

「花冷えの城の石崖手で叩く 」

 

 

7 衆楽園 旧津山藩別邸庭園(岡山県津山市)

 

明暦3年(1657)、津山藩二代藩主森長継が京都仙洞御所を模して造った池泉回遊式大名庭園。

当時は今よりも3倍ほどの大きさでした。

入園料無料でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山口誓子句碑(園内)

「絲櫻 水にも地にも 枝を垂れ」

昭和54年、西東三鬼(さいとうさんき)の「花冷え碑」対面に訪れた折、

衆楽園を吟行しこの句を残しました

 

 

8 徳守神社(岡山県津山市)

 

津山城 の守護神として、築城前に祈願を籠めて、

現在の地に津山藩初代藩主森忠政公により造営されました。

 

 

 

 

徳守神社で私にとって新発見ふたつ。

ひとつは赤穂義士神崎与五郎の歌碑「海山は 中にありとも 神垣の へたてぬ影や 秋の夜の月」

元々は津山藩の武士。討ち入りにあたっても徳守神社を拝したということでした。

 

 

海音寺潮五郎作「赤穂義士」の167ページに神崎与五郎が出てきます。

 

 

もう一つはドラえもんのどこでもドア。

こんなところにあるなんて奇遇でした。

地元の大工さんがこしらえてくれたそうです。

 

WEBから借用

 

 

9 津山まなびの鉄道館(岡山県津山市

1936年に建設された旧津山扇形機関車庫として

車両、転車台、蒸気機関車の動輪などが展示されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10 勝山城跡(別名高田城跡 岡山県真庭市)

 

戦国時代は毛利、尼子の領土分捕り合戦の地。

旭川に面した標高312mの城山に築かれている山城には石垣や堀が若干残されていますが、

「○〇跡」の看板だけで建物はほぼ何も残っていません。

頂上の本丸跡を目指して30分汗かきかき、ひたすら登りました。

いい運動になりました。

 

 

 

 

 

山の下には御殿があった三の丸跡。

 

近くには城下町の名残の古い街並みが残されています。

 

 

真庭市勝山は戦時中谷崎潤一郎が疎開した街です。

 

最寄り駅はJR中国勝山駅。

(福井県に越前鉄道の勝山駅があります)

 

 

11 道の駅安芸高田(広島県安芸高田市)

 

10月10日(金)の夜、 ようやく道の駅安芸高田に到着。

 

翌朝の朝ごはん。温かいご飯は何よりのご馳走。

 

≪『旅の途中』その3に続く≫